〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-W』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(二)
 

2014/12/04 (木) 

日 清 戦 争 (三十八)

話は、かわる。
秋山好古は、当然ながらフランスから帰朝していた。明治二十四年の暮に帰国、すぐ東京に駐屯している騎兵第一大隊の中隊長に補せられた。
は、ほどなく職務がかわった。
明治陸軍は、この騎兵の開拓者に対し、それにふさわしい仕事を与えた。陸軍士官学校と同幼年学校の馬術教官にしたことであった。ところが、期間は半年にすぎなかった。
陸軍は、好古が身につけた騎兵思想を軍政の中枢ちゅうすう につぎ込ませようとし、騎兵の世話をする最高の役所である 「騎兵監」 の副官とした。
「騎兵一筋の男が所を得た」
と、他の科の友人たちが言った。好古はこのとき同時に騎兵少佐に昇進した。明治二十五年十一月一日付であり、同期のたれよりも早かった。年三十四歳である。
が、その翌二十六年五月五日、ふたたび隊に戻った。騎兵第一大隊長である。理由はすでに陸軍が日清戦争を想定して動員態勢に入ったということであろう。好古の騎兵思想を野戦で実検させてみようとした。
ちなみに、大隊というのはひとつの戦術単位としていくつかの中隊を統一し、独立部隊としての機能をもっている。そういう意味で、好古ははじめて独立機能を持った指揮官になった。
明治二十七年になった。
日清戦争の宣戦布告は八月一日に行われるが、事前の衝突というかたちで在朝鮮の大島混成旅団が七月二十九日、成歓で清国を破った。宣戦とともに日本は第五師団の渡韓を開始し、さらに第三師団をも動員した。この第五、第三をもって第一軍を編成した。軍司令官は大将山県有朋である。
第一軍が活動すべき戦場は朝鮮に限定されている。九月十五日、これが平壌で清軍を破った。
同時期の九月十七日、黄海で伊東艦隊が北洋艦隊を破って制海権を確立したため、海上の輸送の安全が開けた。
それによって大本営 (在広島) は、あらたに大軍を輸送して満州に上陸させ、そのあと進んで直隷ちょくれい 平野に決戦を求めるため、第二軍を編成した。軍司令官は大将大山巌で、その隷下に第一、第二の両師団、それに混成第十二旅団 (第六師団) をおいた。
その動員が始まった。要するに黄海の勝利による自動的進出といっいいであろう。
その第二軍の動員とともに当然、好古の騎兵第一大隊も動員された。彼とその部隊が、その駐屯地である東京目黒の兵営を出発したのは九月二十三日である。
彼らの輸送のためにこの当時青山に仮停車場がつくられていた。そこから出発し、二日後に広島に到着した。
第一師団長は、片目がないために独眼竜と言われた中将山地元治もとはる である。軍司令官の大山が薩摩人、この山地が山内容堂の近習きんじゅう あがりの土佐人、それに傘下さんか の二つの旅団の旅団長は、ひとりは長州人の少将乃木のぎ 希典まれすけ 、ひとりは薩摩人の少将西寛二郎であった。なお、明治政権を成立せしめた藩閥が濃厚に生きているといっていいであろう。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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