黄海海戦における最初の発砲は、日本の先頭艦吉野に向けて発射された清国の旗艦定遠のものであった。 ときに距離五千八百メートルであり、定遠が誇る十二インチ
(30・5サンチ) の主砲弾は吉野のうしろ数十メートルの浪間に落ち、すさまじい水煙をあげた。 信号を用いぬ清国艦隊にとって、旗艦が放つ最初の一発が、射撃開始命令の代用だったのであろう。つづいて吉野の前後左右におびただしい水煙が上がった。 ところが吉野は射たない。艦長は
「三千メートルに近づくまで発砲するな」 と、命じ、その距離に接するために速力をにわかに十四ノットあげた。吉野の最高速力は二十三ノットであった。ちなみに日本艦隊はその艦隊速度を十ノットに規整していた。これでも当時の世界の海軍の水準からいえば艦隊速度としては速かったであろう。 一方、清国艦隊は、低速艦をかかえているため七ノットに規整していた。 「その差は、三ノットである。しかし日本艦隊は艦の手入れがいいためか、もっと高速を出しているように思われた」 と、清国側の外国武官は言う。おそらく吉野がにわかに速力をあげたのを見て全体がそうだと錯覚したのであろう。 吉野は零時五十五分、三千メートルに達してから、右舷の砲門をことごとく開き発射した。後続の高千穂、秋津洲がこれにならった。目標は揚威と超勇であった。吉野が三分間右舷斉射
をやっているうち、敵の経遠が大胆にも猛進して来た。その衝角しょうかく
をもって吉野の右腹を突き破るつもりだったのでろう。吉野はそれをかわし、十分後には揚威・超勇二艦との距離を千六百メートルまで縮めた。近距離であるため、むだ弾がなくなり、ほとんど命中した。 が、致命傷を負わせるには至らない。砲が小さいためでった。艦が小さく砲も小さくただ速力のみ高いため、日本艦隊は外国の観戦武官から、 「軽艦隊」 と言われた。 軽艦隊としては、最初から敵を轟沈ごうちん
するという望みを捨てていた。ことに世界でも最も防御力の強い定遠、鎮遠を沈めることは不可能であるという作戦をたてている。 要するに、小口径の速射砲を活用することであった。日本艦隊はそういう小さな砲の数において清国艦隊に優越していた。清国が百四十一門に対して日本は二百九門も持っており、速射砲については清国が新式のものをまったく装備していなかったにの対し、日本は七十六門を備えていた。そのうえ快速力があり、この高度の運動性を利用して小口径や中口径の大砲を大いに働かせ、敵の艦上施設を破壊し兵員を殺傷することに主眼を置いた。敵艦を沈めるだけの巨砲を持たなくても、敵の艦上施設や兵員を無力化させることによって
「浮かべるスクラップ」 にしてしまえば効果は同じであろう。この思想と戦法が全海戦を通じて見事に成功し、 ── 快速の軽艦隊は、その運用いかんによっては、重装甲。巨砲をそなえる艦隊を破ることが出来る。 という新しい戦例がこれによって確立された。 |