出港の時、日本艦隊は石炭を満載した。むこう一週間というながい索敵航海を覚悟したからであった。 が、日清どちらにとって幸運であったか、この日の夜が明けた十七日、両国艦隊が黄海の洋上で遭遇
することになった。 「突如の遭遇であった」 と、のちに伊藤裕亨は言い、清国の司令長官丁汝昌も、 「最初、はるかに黒煙をみとめたが、たちまちにして日本艦隊の艦体が現れ、ついで戦闘を開始するまでその進航速度はきわめて早かった。ほとんど不意討ちに遭う思いがした」 と、ロシアの観戦武官に語っている。そういう遭遇の仕方であった。 遭遇にいたる経過を日本側において述べると、まず先鋒の第一遊撃隊が海洋島付近にまで達したのは、この日
(十七日) の夜明け前であった。 このあたりは鴨緑江の河口をかかえた大いなる湾であり、海洋島はその湾口に浮かんでいる。この島の蔭で本隊を待った。 やがて夜が明け、六時三十分ごろ、本隊が追いついて来た。敵影は見えない。 この間かん
、砲艦赤城は猟犬のように走って海洋島の港をさぐり敵艦隊の有無をたしかめたが、やがて戻って来て、 「敵影ナシ」 と、信号を上げた。ここで伊東は艦隊運動についての教練を命じた。やがて本格的海戦が始まろうというのに、なお教練しようというのは世界海戦史でも類が少ないであろう。 第一遊撃隊は、波を蹴って旋回し、たちまち単縦陣をとり、針路北東へ進んだ。本隊はそれに続き、赤城と西京丸は本隊の左側を進んだ。 夜来の雨はすでにやみ、陽が昇るにつれて天が高くなり、絶好の好天になった。風はまったく死んでおり、 「鏡のごとき黄海は」 と、歌に歌われたように、海上のうねりはほとんどない。 第一遊撃隊の旗艦は吉野である。司令官坪井航三
(少将) が乗っている。この吉野のマストが東北東の水平線上にひとすじの黒煙がにじんでいるのを発見したのは午前十時三十二分であった。 吉野はただちに信号をもって本隊に報告した。それから一時間七分後に煙の数が三すじにふえた。吉野は再び本隊へ信号し、 「敵ノ艦隊、三隻以上、東方ニ見ユ」 と急報した。正午ごろには、双眼鏡に十隻の艦隊が映るまでになった。さらにその左方にも別に二、三隻が従っていることがわかった。 零時五分、伊藤裕亨は各艦に命じて大軍艦旗をマストにかかげしめ、兵員を戦闘配置につかせた。 |