日本艦隊は、作戦の初動においては陸軍部隊の輸送に専念した。それも総力を挙げてそのようにした。 それがほぼ終了したころ、 「そろそろ敵の北洋艦隊を捜し求めて主力決戦をすべきではないか」 という案が出た。これによって黄海海戦の作戦が発動された。 案を出したのは、艦隊に同行している軍令部長
(陸軍における参謀総長) 樺山資紀であった。 樺山は薩摩人で、明治十年半ばまでは陸軍におり、のち海軍に転じた。この人物また海軍技術の基礎教養があったわけではない。 ちなみに、この日清戦争が始まる前、海軍軍司令部長は樺山でなく、佐賀藩海軍出身の中牟田
倉之助であった。中牟田は戊辰戦争で旧幕海軍と戦い、のち西南戦争に従軍したりして実戦歴が豊富なうえ、卓越した技能家でありその専門知識は同時代のどの海軍関係者よりもすぐれていたが、ただ、性格としてtyねび自重を好み、冒険を嫌った。 明治二十六年、海軍大臣西郷従道つぐみち
からもし清国と戦った場合、日本海軍はどうなるかと諮問しもん
された。中牟田は即座に、 「そういうばかなことをたれが考えた。日本が清国と戦争して勝てると思っていなさるのか。とうていあの海軍には勝てぬ」 と答えた。 海相の西郷従道も同感だったが、周到な政略の下にやれば勝てぬことはないと考えた。短期決戦ということであった。出端でばな
で景気よくくじき、しお・・ をみて講和に持ち込むという方法であった。これが日清戦争の基本政略であったといっていい。 とにかく西郷はこの中牟田をやめさせ、多少暴勇をこのむきらいのある樺山資紀を、予備役の身ながら起用したのである。 開戦とともに蒲山は、軍令部長の身ながら海上に従軍した。むろん艦隊の指揮権は司令長官伊藤裕亨にあるが、樺山は相談役ということで艦隊と行動をともにした。軍艦に乗るわけにはいかないから、仮装巡洋艦
(本来は商船) の西京丸に砲若干門を乗せ、それでもって作戦海域に出没し、各国の観戦者から、 「西京丸ほど大胆な船はない」 と、感嘆された。 ただ、日本海運の最高幹部が、ほとんど薩摩人であることについても、各国の観戦者は注目した。海相西郷、軍司令部長樺山、司令長官伊藤、緒戦で問題を起こした浪速艦長東郷など、その数はじつに多い。 世界の海軍界でもっとも権威のある英国のブラッセー年鑑1895年発刊の
「日清海戦」 の項にも、このことにふれている。この年鑑の記者は薩摩人というのは日本人の中の特殊なある種族であると思っているらしく、 「思うに、薩摩人もしくはその一派の種族は、天資剽悍ひょうかん
で勇猛ではあるが、元来学識とぼしく、従って冷静な判断力に欠けている」 と、書いている。 が、おなじ薩人ながら樺山に比べ伊藤は自重家のかたむきがあった。その伊藤も、この時期においてはもはや樺山提案の主力決戦に賛成している。 |