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── 坂 の 上 の 雲 ──
(二)
 

2014/11/30 (日) 

日 清 戦 争 (二十七)

この戦役から日本は初めて連合艦隊方式を取った。その司令官は中将伊東祐亨すけゆき である。
伊東は薩摩の人。
海軍の技術は、旧幕時代、勝海舟が阪本竜馬りょうま を塾頭にして神戸で起こした神戸海軍操練所で学んだ。
元治元 (1864) 年夏、禁門ノ変が起こるに及んで退塾し維新後はいち早く海軍に入り、いきなり富士山ふじやま 艦の一等士官になった。明治五年には春日の艦長、さらに東、日進などの艦長を経て西南戦争に従軍し、さらに海上勤務をつづけた。これらの履歴でもわかるように伊東が受けた海軍教育というのは竜馬らの神戸の塾での一年程度のものであり、その後、留学もせず、国内での正規教育も受けていない。要するにこのサムライ上がりの男は、海上の実務でみずから海軍を会得えとく したらしい。
もっともこういう正規教育を受けずに海軍の将官や佐官になっていた者は明治初年から二十年代の中頃まではふんだんにいた。たいていは伊東と同様、薩摩藩出身であり、維新の功労や藩閥のおかげでそういう階級を与えられていた。が、役には立たない。
明治海軍を殆ど一人で近代化したといっていい薩摩出身の山本権兵衛はこの当時、大佐の身分で、海軍大臣西郷従道つぐみち のもとで官房主事をつとめていた。
「戦いに勝つにはこれらの無用の人物をすべて整理する必要があります」
と、同郷の西郷海相に意見具申ぐしん し、その許しを得、将官八名、佐官・尉官八十九名という大量の首切りを開戦前の明治二十六年に断行し、兵学校教育を受けた士官を海軍運営の主座にすえることにした。
この時でさえ、伊東祐亨は整理されていない。彼は明治二十二年海軍大学校の二代目の校長になり、校長でありながら学生とともに高等戦術をやとい 外国人から学んだりした。そういういわば頭脳の柔軟さと努力が、この人物をして近代海戦の戦闘指導者の能力を持たせるにいたったのであろう。
明治二十七年七月二十三日、伊東祐亨は旗艦松島に搭乗して佐世保港内にあり、午前十一時、麾下きか 艦隊に対し、
「予定順序に従い、出港せよ」
と、信号を掲げた。連合艦隊司令長官としての最初の信号である。
ときに、軍令部長樺山資紀かばやますけのりが汽船高砂丸に乗って見送りに出、港外帆揚岩ほあげいわ のあたりで停船しつつ、
「帝国海軍ノ名誉ヲアゲヨ」
と、色あざやかな信号旗を掲げた。先ず出港したのは第一遊撃隊の吉野、秋津洲、浪速であり、旗艦吉野はそれに答え、
「全クスル」
と、信号を上げた。ついで本隊松島に座乗する伊東祐亨は、
「タシカニ名誉ヲ揚グ」
と、答え、ついで第二遊撃退旗艦葛城は、
凱旋がいせん ヲ待テ」
と言い、最後に出港した輸送船護衛の愛宕あたご は、
懸念けねん スルニ及バズ」
と、答信した。この日、晴天であった。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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