〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-W』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(二)
 

2014/11/30 (日) 

日 清 戦 争 (二十六)

日清戦争の当時、秋山真之は海軍少尉、巡洋艦筑紫つくし の乗組みである。
── どうやらいくさはまぬがれまい。
といううわさが海軍内部で常識になりはじめたころ、真之は自分の運のなさを嘆かざるを得なかった。筑紫などという小さな船に乗っているようなことでは、主決戦場には臨めないであろう。
筑紫は明治十六年竣工の英国製で、1350トンであり、26サンチ砲を二門積んでいた。軍艦の分類でいえば砲艦に近く、とうてい大海戦の主役たり得ない。
六月二日の閣議で朝鮮への出兵が決められた時、その段階では日本海軍の艦艇は一ヶ所に集結していなかった。急ぎ連合艦隊が編制されねばならなかった。
「急ぎ佐世保に集結せよ」
と、全艦艇に命令が下り、その電信を軍艦筑紫が受けたとき、この艦は漢城における在外交館の保護のために仁川港にいかりをおろしていた。僚艦は大和である。
日清戦争は海軍に関する限り、さほどに計画的ではなかった。艦艇はなお平和な勤務についていた。軍艦がはたすべき平時の職分はわりあい多い。たとえばこの時期、主力艦ともいうべき高千穂は金剛とともにハワイへ送る移民保護という仕事でホノルル港にいたし、おなじく主力艦の松島は千代田、高雄たかお をひきいて親善航海のために清国の福州に行き、旋回して北上中であったし、赤城あかぎ はこんど敵として海上でまみ えねばならなぬ清国北洋艦隊から招かれ、その大演習を見学し、その見学を終えて芝罘チーフー 港に入って休息していた。さらに大島は釜山にいかりを下ろしており、磐城ばんじょう は北海道で測量に従事していた。
それらが 「連合艦隊」 として佐世保港に集結を終わるのは、閣議が決定してから一ヵ月半もたつ七月十九日である。
連合艦隊の全勢力は、
軍艦二十八隻、水雷艇二十四隻、合計トン数は五万九千六十九トン
であり、これに対して清国海軍は四大艦隊を持ち六十四隻の軍艦と二十四隻の水雷艇を持ち、合計トン数は八万四千トン。しかしながらこのうち日本にあたるのは北洋艦隊で、この勢力は軍艦二十五隻、水雷艇十三隻、合計トン数は五万トンで、ほぼ日本のそれに近い。ただ北洋艦隊は鎮遠、定遠という世界最新鋭の戦艦を持ち、分厚い装甲板による防御力と旋回式砲塔による攻撃力をそなえ、この点で日本艦隊よりはるかに有力であった。日本艦隊のうち九隻は鎮遠・定遠に及ばぬにしても鋼鉄製で四千トン前後の大艦であり、運動性能も高く、主力決戦に用いる事が出来た。が、他は老朽か旧式艦が多く、天竜、葛城かつらぎ 、海門、天城、磐城にいたっては木造艦であった。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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