この第一戦は、日本側の勝利であった。成歓
の清軍陣地を猛攻して抜き、清軍三千をして平壌へ敗走させた。 七月二十九日である。むろん、宣戦布告はまだおこなわれていない。これら一連の戦いは、 「韓国政府の要請による」
というかたちがとられていた。 それより以前、同月二十五日の海上ではすでに最初の砲煙があがった。作戦の予定に無かった突発事件といってよく、日本政府だけでなく世界中を驚かせた。 このころ、巡洋艦三隻からなる第一遊撃隊が、朝鮮西岸の豊島ほうとう
沖を遊弋ゆうよく していた。艦名は、吉野、秋津洲あきつしま
、浪速である。 三艦が単縦陣によって豊島の沖に達したのは、七月二十五日の早朝であった。 この日、晴天で微風、海面にときにあわい霧が流れている。 このとき沖合いに数条の黒煙が上がり、艦船が近づいて来た。よく見ると清国海軍の済遠さいえん
、広乙こうおつ の二隻であることがわかった。 日本側は、宣戦布告以前であるため、礼砲を用意した。 が、距離三千メートルのところで済遠は実弾を発射し、このため戦闘が開始された。 双方砲戦するうち、済遠は逃げ、広乙は何を思ったのかにわかに速力を増し、陸上に突進してみずから浅瀬にのりあげ、にち降伏した。 午前十時、済遠を追いかけていた浪速は、べつの目標を発見した。大型汽船であった。 マストに英国旗をかかげているが、眼鏡でとらえたところでは清国陸軍の将兵を満載していることがわかった。 「ただちにとまれ。ただちに投錨とうびょう
せよ」 と、浪速は信号を上げた。 浪速からボートが出、士官が派遣された。その報告によると、この英国汽船高陞こうしょう
号は清国が陸兵輸送のためロンドンのジャーデン・マジソン・コンパニーからやとい入れたもので、現在、陸兵千五百人、大砲十四門を積み、牙山に上陸させようとしているという。 浪速の艦長は、大佐東郷平八郎であった。 彼は英人船長に対し、 「その船を捨てよ」 と、信号で命じた。 ところが、高陞号の船内は騒然としており清国兵は船長以下をおどし、下船させなかった。東郷はこの間かん
の交渉に二時間半もかけたあげく、マストに危険を知らせる赤旗を掲げ、そのあと、撃沈の命令を下した。浪速は水雷を発射し、ついで砲撃した。 高陞号は沈んだ。 船長以下船員はことごとく救助されたが、清国兵はほとんど溺死した。 この事件は直ぐ上海しゃんはい
電報によって英国に打電され、最初の報道はきわめて簡単であったために英国の朝野を激昂させたが、やがて詳細がわかるにつれて浪速艦長東郷平八郎のとった処置は国際法に照らしてことごとく合法であることがわかった。 このような事件のあと、清国に対して宣戦布告が発せられたのは八月一日である。 |