〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-W』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(二)
 

2014/11/29 (土) 

日 清 戦 争 (二十四)

首相の伊藤博文も陸軍大臣の大山巌もあれほどおそれ、その勃発を防ごうとしてきた日清戦争を、参謀本部の川上操六が火をつけ、しかも手際よく勝ってしまったところに明治憲法のふしぎさがある。ちなみにこの憲法がつづいた限り日本はこれ以後も右のようであり続けた。とくに昭和期に入り、この参謀本部独走によって明治憲法国家が滅んだことを思えば、この憲法上の 「統帥権」 という毒物のおそるべき薬効と毒性がわかるであろう。
とにかく参謀次長川上操六は、清国についてのあらゆる材料を検討した結果、
「短期決戦のかたちをとれば成算あり」
という結論を得た。
長期にながびけば、不利になる。第一に日本の財政が破綻はたん し、さらには国際関係の点でもロシアと英国が清国側につくに違いなかった。そのことについては、川上は外相陸奥宗光と内々で十分な打ち合わせを遂げていた。短期に大勝をおさめる仕事は川上が担当し、しお・・ を見てさっさと講和へもってゆく仕事は陸奥が担当する。この戦争は、この二人がやったといっていいであろう。
兵は、迅速じんそく に動いた。
閣議決定後わずか十日の六月十二日、混成旅団の先発部隊は早くも仁川に上陸した。
清国は驚き、韓国は狼狽した。
「日本帝国の公館と居留民を保護するというには、上陸旅団の人数が多すぎる」
と、清国側はさかんに抗議した。
このとき漢城には公使として大鳥圭介が駐在していた。大鳥は旧幕臣であり、かつては薩長に抗して関東に転戦し、最後は函館はこだて五稜郭ごりょうかく に籠ったという経歴を持っている。智謀の士ではなかったが、一種の蛮勇があった。外相の陸奥はこの部下の蛮勇を使い、
── 大鳥をして一雨降らせる。
と思い、そういう内訓を与えた。
大鳥は元来がそれは生地きじ であったが、一個旅団の応援を得ていよいよ韓国に対し強引な外交をやった。 「日本の大使は銃剣の威をかりて強盗のようなことをする」 と漢城の列国外交団はことごとく大鳥をきらい、この悪評が東京にまで聞こえた。
大鳥は、韓国朝廷の臆病につけ入ってついにはその最高顧問格になり、自分の事務所を宮殿に持ち込んだ。
韓国に対する大鳥の要求はただ二つである。 「清国への従属関係を断つこと。さらには日本軍の力によって清国軍を駆逐くちく してもらいたいという要請を日本に出すこと」 であった。
が韓国側は清国が日本よりはるかに強いと信じているため、この要求を れることを当然ながらためらった。
しかし七月二十五日、ついに韓国はこの要求に屈し、大鳥に対し清国兵の駆逐を要請する公文書を出した。
大鳥はすでに派遣旅団長の大島義昌と気脈を通じている。公文書が出るや、大島旅団は時を移さず牙山がざん に布陣中の清国軍に向かって戦闘行動を開始した。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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