ドイツは遅れて統一を遂げた。目下、ドイツ帝国の伸張期にあるが、そういうドイツの現実を他の欧州人たちは、 「プロシャでは国家が軍隊を持っているのではなく、軍隊が国家を持っている」 と、冷笑した。 川上操六は骨の髄からのプロシャ主義者といっていい。彼はその思想であったため、参謀本部の活動はときに政治の埒外に出ることもあり得ると考えており、あり得るどころか、現実ではむしろつねにはみ出し、前へ前へと出て国家をひきずろうとしていた。この明治二十年代の川上の考え方は、その後太平洋戦争終了までの国家と陸軍参謀本部の関係を性格づけてしまったといっていい。 ──
日清戦争はやむにやまれぬ防衛戦争ではなく、あきらかに侵略戦争であり、日本においてははやくから準備されていた。 と後世言われたが、この痛烈な後世の批評をときの首相である伊藤博文が聞けば仰天するであろう。伊藤にはそういう考え方はまったくなかった。 が、参謀次長川上操六にあっては、あきらかに後世の批判通りであるといっていい。そこがプロシャ主義なのである。 プロシャ主義にあっては、戦いは先制主義であり、はじめに敵の不意を衝く。 それ以外に勝利はあり得ないとする。そのためには
「平和」 な時からの敵の政治情勢や社会情勢、それに軍事情勢を十分に知っておかねばならない。 そのために、諜報
が必要であった。 川上は、諜報を重視した。 しかも諜報は諜報屋に任せることをせず彼の配下である参謀将校の中からもっとも優秀な者を選び、敵地に潜入させた。それらがいざ開戦の時には作戦を担当するという点で、他の国とやり方が違っていた。 たとえば明治十七年、清国が安南ベトナム
の問題でフランスと戦うや、川上は、 「清国の軍隊の実情を調査せよ」 と、多くの参謀将校を現地に派遣した。大尉福島安正、同小島正保、中尉小沢コ平、同小沢豁郎かつろう
であり、さらに少尉青木宣純に命じて南シナに三年間、潜伏させた。青木少尉の変名は広瀬次郎といった。また中尉柴五郎に特命して北シナに潜入させたのは、この付近が将来戦場になることを予想したからであり、作戦のための地形地理を調査させた。 中尉小沢豁郎にいたっては、潜伏中、福州の哥老会かろうかい
という地下組織とむすび、革命運動をさえ起こそうとした。日本政府はこれを聞き、あわてて本国に呼び戻した。 明治二十年七月になると、将校の現地派遣はいよいよさかんになった。中佐山本清堅きよかた
、大尉藤井茂太、同柴山則などで、彼らは北シナ方面に派遣され、沿岸上陸地の選定、軍隊輸送の方法、上陸後の戦略目標の選定などを主題に、朝鮮の仁川じんせん
から芝罘チーフー を経、天津にいたり、大沽タークー
砲台を見聞し、北京にいたり、永平府街道を経て山海関にまで達した。 すべてプロシャ式であった。この間かん
、清国陸軍の機能は眠ったが如く動いていない。 |