〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-W』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(二)
 

2014/11/26 (水) 

日 清 戦 争 (二十一)

人類は多くの不幸を経、いわゆる帝国主義的戦争を犯罪としてみるまでにすすんだ。が、この物語の当時の価値観は違っている。それを愛国的栄光の表現と見ていた。
日本は国が小さすぎたが、しかし清国との戦争に勝とうとした。勝つには、勝つためのシステムと方法があるであろう。
そのシステムと方法こそ、参謀本部方式というべきものであった。
プロシャ主義である。
これについては、プロシャ陸軍の参謀少佐メッケルが教えた。さらにそれをより多く知るために多くの英才がドイツに派遣された。そのなかでの最大の人物は、この当時、陸軍の至宝と言われた川上操六であった。
彼は明治二十年一月にドイツに派遣され、ほぼ一年半、ベルリンに滞在し、参謀本部の組織と運営を研究し、帰国後、参謀次長に再任した。
この帰国後、この薩摩出身の軍人の思想はプロシャそのものになったといっていいであろう。
国家のすべての機能を国防の一点に集中するという思想である。
たとえば、鉄道である。鉄道は海岸をも通るが、川上はこれを不可とした。
「敵の艦砲射撃をうけるではないか。一朝有事のさい、軍隊輸送がそれによって大いにはばまれる。鉄道はよろしく山間部を走るべきである」
明治二十五年、彼は鉄道会議議長となってこれを主張した。この当時、東海道線はすでに開通していたが、中央線、山陽線その他は敷設計画中であった。九月、鉄道の主管大臣である逓信ていしん 大臣黒田清隆の官邸でその会議が開かれ、逓信省側がその精細な実測図と計画案を出したが、川上はこれに異論をとなえ、「海岸暴露線はやめよ」 とあくまでも主張し、川上に意見を通すとなれば山間にトンネルを無数に掘らねばならず、そのための経費が膨大になるという理由で会議は大いに紛糾した。
川上の反対者は陸軍大臣大山巌であった。
「そういうばかなことをすべきでない」
と、大山は言う。大山は川上と同じ薩摩出身の陸軍幹部ながら、その教養をフランスで受けたために発想の方法は多分にフランス的であった。
「なるほどわが国は将来、他国と戦いをするかも知れない。しかし世界中を相手に戦いをするというようなことはあり得ず、つねに同盟国があるはずであり、その海軍の援助も受ける。それに鉄道は国民の便利のためにあるものであり、軍隊輸送を眼目に置くなどということはあるべきではない」
この議論には、大山、川上と同郷の黒田清隆が川上の反対側にまわり、コブシでテーブルを乱打し、
「川上君、陸軍だけがよければ、鉄道のために国家が亡びてもよいのか、君が男なら庭へ出ろ。庭で真剣勝負しよう」
と怒号すたため、川上も譲歩せざるを得なくなったが、要するに参謀本部は日本のなかのプロシャとして巍然ぎぜん として立とうとしていた。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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