〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-W』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(二)
 

2014/11/25 (火) 

日 清 戦 争 (二十)

韓国自身、どうにもならない。
李王朝はすでに五百年も続いており、秩序は老化しきっているため、韓国自身の意思と力でみずからの運命を切り開く能力は皆無と言ってよかった。
そこへ東学党ノ乱がはびこっている。東学とは西学 (キリスト教) に対する言葉である。儒・仏。道という三教をあわせ、これに現世げんぜ 利益りやく をくわえた新興宗教で、これがわが国の幕末ごろから朝鮮の全羅道ぜんらどう ・忠清道の農民の間に広がり、やがてそれが農民一揆いっき の色彩をおびて来た。
これが韓国の秩序をゆるがすほどの勢いになったのは、明治二十七年二月のいわゆる申午こうご 農民戦争からである。東学の布教師の一人である全?準ぜんほうじゅん らが指導し、千人をもって古阜こふ 郡役所を占領した。五月十一日、これを鎮圧しようとした政府軍を黄土?こうどけん でやぶった。同二十七日には新式火器を持つ官軍を四千の農民軍が破り、同三十一日には全州城を陥落させた。
韓国政府は大いに驚いた。韓国が直面したおそるべき不幸はみずからの政府の手で国内の治安を維持出来なくなったところにあるであろう。
「清国に要請して大軍を急派してもらおう」
という議がもち上がった。
── 日本に要請して。
とは、ほとんどの者が思わなかった。日本を小国とかろんじていたし、在来、清国を宗主国としていたから当然ながら宗主国に頼るという考え方になった。ただ、
── 清国に救援軍を頼めば、それに対抗して日本軍もやって来るのではないか。
という消極的反対論はあったが、すでに足もとから農民蜂起ほうき の火がついている以上、自重論などは通らなかった。
そのうえ、漢城 (のち京城、現ソウル) には韓国駐在の清国代表として袁世凱えんせいがい という清国政府きっての実力者がいる。韓国政府はひそかにこの袁に右の旨を申し入れた。袁は今こそ、朝鮮に清国の支配力を強化する好機と見て大いに喜び、その旨を本国に申し送った。
このころ、漢城にいた日本の代理公使は朝鮮通をもって知られる杉村ふかし であり、この動きを探知し、本国に知らせ、
「日本としては万一の場合にそなえ、いつでも出兵できる支度をすべきであり、もし清国に先手を打たれれば朝鮮における日本の発言権は消え去るであろう」
と、上申した。外務大臣陸奥宗光は同意見であった。彼は機敏に処置した。
日本陸軍は陸奥以上に機敏であり、韓国政府が内々で袁世凱に救援を申し入れた六月一日には、早くも兵員輸送の船舶を確保しようとしていた。その翌二日には、閣議で出兵が決定した。
ただ首相の伊藤博文は、のち日露戦争の場合もそうであったように、この場合も清国を相手に戦争を起こすことを極力避けようとした。伊藤の政治家としての基本性格であったであろう。
彼は派遣軍に対しては 「清国との勢力均衡をはかるという埒外らちがい に出るな」 ということを、陸相大山いわお に言いふくめた。大山は承知した。が、参謀本部はべつのはら をもっていた。開戦を必至と見、それを基本思想として出兵を計画した。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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