そろそろ、戦争の原因にふれねばならない。 原因は、朝鮮にある。 といっても、韓国や韓国人に罪があるのではなく、罪があるとすれば、朝鮮半島という地理的存在にある。 ゆらい、半島国家というものは維持がむずかしい。この点、ヨーロッパにおけるバルカン半島やアジアにおけるベトナム
(安南) などがそれを証明しており、たまたまこの日清戦争の直前、ベトナムにおいてよく似た問題が起こっている。清国がベトナムの宗主権を主張し、これを植民地にしようとしたフランスと紛争し、その結果、清仏戦争が起こり、フランス海軍は清国福建艦隊を全滅させ、さらに陸戦においても清国は連戦連敗した。明治十七年のことである。 朝鮮半島の場合は、ベトナムよりも複雑である。 清国が宗主権を主張していることは、ベトナムとかわりないが、これに対し新たに保護権を主張しているのはロシアと日本であった。 ロシア帝国はすでにシベリアをその手におさめ、沿海州
、満州をその制圧下に置こうとしており、その余力を駆ってすでに朝鮮にまで及ぼうという勢いを示している。 日本は、より切実であった。 切実というのは、朝鮮への想いである。朝鮮を領有しようということより、朝鮮を他の強国に取られた場合、日本の防衛は成立しないということであった。 日本は、その過剰ともいうべき被害者意識から明治維新を起こした。統一国家をつくりいちはやく近代化することによって列強のアジア侵略から自国をまもろうとした。その強烈な被害者意識は当然ながら帝国主義の裏がえしであるにしても、ともかくも、この戦争は清国や朝鮮を領有しようとして起こしたものではなく、多分に受け身であった。 「朝鮮の自主性を認め、これを完全独立国にせよ」 というのが、日本の清国そのほか関係諸国に対する言い分であり、これを多年、ひとつ念仏のように言い続けて来た。日本は朝鮮半島が他の大国の属領になってしまうことをおそれた。そうなれば、玄界灘げんかいなだ
をへだてるだけで日本は他の帝国主義勢力と隣接せざるを得なくなる。 このため日本は全権伊藤博文を天津てんしん
におくって清国の李鴻章と談判せしめ、いわゆる天津条約を結んだ。 その要旨は、 「もし、朝鮮国に内乱や重大な変事があった場合」 という想定のもとに、 「そのばあい、両国
(清国と日本) もしくはそのどちらかが派兵するという必要が起こったとき、たがいに公文を往復しあって十分に了解をとげること。乱がおさまったときにはただちに撤兵すること」 ということであった。この条約によって日本は朝鮮の独立を保持しようとした。 |