当時、北京の代表的政治家は李鴻章であった。たんに北京というだけでなく、この時代、世界を通じてみても李鴻章ほどの政治化は多くない。 李鴻章は若い頃、文官の出身であったが、みずから投じて軍事にも従った。清国はあらゆる面で末期的現象を示していたが、とくに内乱が相次ぎ、長髪賊がはびこり、政府軍がはなはだ振わなかった時、彼は郷里に帰って郷勇
(志願兵) を組織し、それを訓練し、それによって大いに賊を防ぎ、その後、英人ゴンドル将軍と連合して各地に賊を破り、いよいよその材幹を認められた。 その後の彼の官歴は絢爛けんらん
としている。五国通商大臣を振り出しにほどなく南洋通商大臣を兼ねた、というこの経歴は、彼を外交上の腕達者に仕上げてゆく。さらに欽差きんさ
大臣になり、北洋通商大臣を兼ね、ついで海軍を建設し、わが国の明治十九年、全権大臣になった。北京にいる列強外交団などは李鴻章をおだてて、 「東洋のビスマルク」 とほめたし、日本の外務省などでは、 「夷人ころばしの名人」 とも言った。 あるいはビスマルクより李鴻章の方が優れているであろう。彼の祖国である清国はドイツとは異なり、内乱相つぎ、政綱せいこう
乱れ、兵弱く、しかも国土広く資源はゆたかであり、それらにつけ入られて列強の利権欲のえじき・・・
にされつつある。李はそういう困難な状況下でこの国の宰相になり、老大国の体面を保ちつつ、多くの利権を列強に与えながらも彼らを相互に牽制し合わせて北京外交の勢力均衡きんこう
を保たせようとした。このあたりは名人芸と言っていいであろう。 ただ李鴻章の外交の欠陥は、東洋的尊大さで終始していることであろう。 小村寿太郎は、着任早々、万寿節ばんじゅせつ
の賀宴に招かれた。 外国の外交団にとって、北京はアジア外交の主舞台であった。この万寿節の賀宴は外交官にとっては北京における華麗な祭典であると言っていい。 宴がおわり、小村は別室に設けられた控えの間で休息し、他の国々の外交官と談笑していたが、そこへ、李鴻章が巨躯きょく
をゆすって現れ、ふと小村の姿をみとめ、その前に来て慇懃に辞儀をしたあと、 「ところで小村閣下」 と、身をかがめながら言った。 「この席に各国の貴顕紳士がおられ、淑女も大輪の花のようでございます。しかしながら見まわしたところ、閣下のお背丈せたけ
が一番お小さいようでございますが、貴国のひとびとは皆閣下同然小そうござるのかな?」 「残念ながら」 と、小村は背をそらし、 「日本人は小そうございます。ただ大きい者もおります。閣下のごとく巨躯を持つ者もおりますが、わが国ではそれをうど・・
の大木とか、大男総身に智恵がまわりかね、などろ申し、左様な者には国家の大事は托さぬということになっております」 あとは、哄笑した。 |