この明治二十六年は、日清戦争の前年である。この年、正岡子規は
「日本」 新聞に入社したばかりであり、小村寿太郎は秋十月、北京へ赴任する。 同じ時代の人と言うだけで両人の間にっどういう縁もないが、ただひとつ、陸羯南が子規に、 「この小村寿太郎という人は、相当にやるかもしれないね」 と、外務省人事の記事を見ながら言った。羯南が偶然この名前を知っていたことをのぞけば、物知りの編集主任古島一念も知らず、編集同人のたれもかれもこの名前について何の知識も持っていなかった。要するに、一年後に世間に喧伝
されたこの人物は、この時期では無名の外務省役人にすぎなかった。しかし、羯南は言う。 「杉浦君が、いつも言っている」 杉浦君とは、杉浦重剛のことである。近江おうみ
膳所ぜぜ の人で、大学南校では小村寿太郎と同窓であり、のち英国に留学して化学を学んだが、帰国後、国粋主義に転じ、教育者になった。子規が大学予備門の頃の校長であった。もっとも当時、杉浦は二十八、九歳でしかない。 その杉浦と陸羯南は親友の仲で、二人はほとんど毎日のように牛込五軒町の日本倶楽部くらぶ
でで会っている。その杉浦が羯南に、 「こんど北京公使館の参事官になった小村寿太郎というのは物の本質を見抜くに長た
けた男で、どのように複雑な状況に直面しても、ごまかされることなく本質を見抜く。英語で言う fallacy (誤謬ごびゅう
) の見える男で、しかも実行力があるから、必ず何事かをするにちがいない」 と語ったと言う。 子規のことは、しばらく措お
く。 とにかく小村寿太郎は北京へ赴任した。職は参事官であったが、中国駐在l公使である大鳥圭介けいすけ
は韓国の駐在公使をも兼ねており、実はその方がはるかに多忙であったため、小村は北京に着くと即日、代理公使を命ぜられた。 当時、日本にとって清国は見上げるばかりの大国であったが、かといって公使館の仕事は案外少ない。 英米仏独といったいわゆる列強に駐在している日本公使館員は、条約改正や国債の処理など、大きな継続問題をかかえていわば重要な仕事をしていたが、中国に対しては日本はそういう課題を持っていない。 この点、列強は中国外交を重要視している、英米仏独露といった国々は中国の領土を蚕食さんしょく
し、早くから大きな市場を獲得しており、それらの権益を擁護したり、さらに大きな権益を得るという重大な目的があって、それぞれ相当の重量を持った外交官をここに置いている。 北京におけるそれらの列強の公使たちは、たえず彼らだけのコンサート・オヴ・パワーズを組み、中国を相手の共通の利害のために緊密な連絡を取り合っていたが、むろん日本公使はその仲間に入れてもらえない。 中国の大官たちも、日本の公使を列強のそれと比べると露骨に差別することが多い。 |