〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-W』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(二)
 

2014/11/20 (木) 

日 清 戦 争 (九)

戦争が始まろうとしている。
いわゆる日清戦争である。日本の近代史が初めて経験したこの対外戦争を、この物語の中における三人の伊予人も、当然ながらそれぞれの場所で経験して行く。
日清戦争とは、なにか。
「日清戦争は、天皇制日本の帝国主義による最初の植民地獲得戦争である」
という定義が、第二次世界大戦のあと、この国のいわゆる進歩的学者たちのあいだで相当の市民権をもって通用した。
あるいは、
「朝鮮と中国に対し、長期に準備された天皇制国家の侵略政策の結末である」
とも言われる。というような定義があるかと思えば、積極的に日本の立場を認めようとする意見もある。
「清国は朝鮮を多年、属国視していた。さらに北方のロシアは、朝鮮に対し、野心を示しつつあった。日本はこれに対し、自国の安全という立場から朝鮮の中立を保ち、中立を保つために日清の勢力均衡を計ろうとした。が、清国は暴慢であくまでも朝鮮に対するおのれの宗主権を固執しようとしたため、日本は武力に訴えてそれを見事に排除した」
前者にあっては日本はあくまでも奸悪な、悪のみに専念する犯罪者の姿であり、後者にあってはこれとは打って変わり、英姿さっそうと白馬にまたがる正義の騎士のようである。国家像や人間像を悪玉か善玉かという、その両極端でしかとらえられないというのは、今の歴史科学の抜き差しならぬ不自由さであり、その点のみからから言えば、歴史科学は近代精神をより少なくしか持っていないか、持とうにも持ち得ない重要な欠陥が、宿命としてあるように思える。
他の科学に、悪玉か善玉かというような分け方はない。たとえば水素は悪玉で酸素は善玉であっるというようなことはないであろう。そういうことは絶対にないと言う場所で初めて科学というものが成立するのだが、ある種の歴史科学の不幸は、むしろ逆に悪玉と善玉と分ける地点から成立してゆくというところにある。
日清戦争とは何か。
その定義づけを、この物語においてはそれをせねばならぬ必要が、わずかしかない。
そのわずかな必要のために言うとすれば、善でも悪でもなく、人類に歴史に中における日本という国家の成長の度合いの問題としてこのことを考えてゆかねばならない。
ときに、日本は十九世紀にある。
列強はたがいに国家的利己心のみで動き世界史はいわゆる帝国主義のエネルギーで動いている。
日本という国は、そういう列強をモデルにして、この時点から二十数年前に国家として誕生した。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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