子規は、新聞社に勤めていることを気に入っていたらしい。 とくに、陸羯南の
「日本」 新聞の社員であることに満足していた。 寒川鼠骨という、子規より七つ八つ下の後輩がいる。松山三番町の生まれで、子規をやはり
「升さん」 と呼ぶ同郷グループの一人であり、はやくから俳句で師事した。寒川は京都に出来た第三高等中学に入ったが、ほどなく中退し、上京して来て子規を訪ねた。新聞社に勤めることが希望であり、たまたま 「朝日新聞」
にもつてがあり、 「日本」 にも子規というつてがある。 「どっちにしようかしらん」 と、相談した。朝陽は月給が高く、日本は新聞界で最も低い。 「考えるまでもないがの、日本・・
におし」 と、子規は言った。 その理由が、ふるっていた。 「人間の偉さに尺度がいくつもあるが、宰相の報酬でもっとも多く働く人ほど偉い人ぞな。一の報酬で十の働きをする人は、百の報酬で百の働きをする人より偉いのぞな」 さらに子規は言う。 「人間は友を選ばんといけんぞな。日本・・
には羯南翁がいて、その下には羯南翁に似た人が沢山いる。正しくて学問の出来た人が多いのじゃが、こういう人びとをまわりに持つのと、持たんのとでは、一生がちごうて来るぞな。安くても辛抱おし。七十円や八十円くれるからというてそこらへ行くのはおよし。あそばずに本をお読みや。本を読むニにさほど金は要らんものぞな」 子規の死後、母親のお八重は、 ──
升は、生きているうちは大変お金にこましました。 と言って、涙をこぼしたという。子規に生涯を通じ、その収入はこの 「日本」 新聞から入る安い給料のほかはなかった。 やや後のことになるが、俳誌
「ホトトギス」 の編集を、子規が 「清サン」 と言っていた高浜虚子に任せることになったとき、子規は手紙を送り、 「君は俳句の方ではあし・・
しよりも上手いところがあるが、しかし雑誌の経営というようなことになると、あし・・
の方が上手い。とにかく売れるような雑誌をこしらえる技倆は君らにはなさそうだ」 という意味のことを書いてところをみると、子規は自分の編集上の腕をみずから認めていたのであろう。 彼が編集主任になった
「小日本」 の編集室は、 「日本」 が手ぜまなので、社屋から半丁ばかり離れた所に設けられた。角家の土蔵を借りた。その土蔵の二階八畳が彼の編集室だった。 「小日本」
は誕生してほどなく政府の弾圧をくらって発行停止になり、 子規は 「日本」 に戻ることになるが、とにかく子規の編集長としての腕は、 新聞にうるさい古島一念も認めるようになり、子規の死後、 「天がその才幹をねたんでこのひとを夭折ようせつ
させた」 とまで古島は言い、その死を惜しんだ。 |