真之が
「吉野」 の回航のために英国の派遣されているこの年、子規は 「日本」 に 「芭蕉雑談」 を連載しはじめた。子規はまだ若年で、論旨に青くさい気おいこみがあるにしても、これが、俳句復興の大きな松明になったことは確かであろう。 芭蕉といえば俳諧の神のようなものであり、たまたまこの明治二十六年は芭蕉の二百年忌にあたり、全国の崇敬者たちの間で様々な催しが行われた。子規のこの
「芭蕉雑談」 はそういうさなかに出て、芭蕉の句といえばそれだけで神聖とし、ことごとく名品とみるこの道の傾向に冷水をあびせた。 子規は芭蕉の偉大さをみとめつつも、 「芭蕉の俳句は過半、悪句駄句を以
て埋う められ」 という。芭蕉のあとたれもそれをなし得なかった断案を下した。 芭蕉が残した俳句は千余首、子規はそのうちで
「上乗と称すべきは二百余首にすぎず」 という。芭蕉に悪罵あくば
を投げかけたのではなく、芭蕉の作品に対して、はじめて近代的批評精神による公正な場を与えようとしたと言っていい。 「むしろ一人で二百首も上乗の作業を残したというところに芭蕉の一大文学者たるところがある」 としている。 秀句よりも悪句駄句の比率がはるかに高いという事情については、子規はみごとに救済している。 「芭蕉の文学というのは古いにしえ
を模倣したものではなく、みずから発明したものである。 それ以前の貞門ていもん
や檀林だんりん の俳諧を改良したというよりもむしろ蕉風しょうふう
の俳諧を創始したと言う方が妥当である。ところが芭蕉がこの自流を開いたというのは彼の死をさかのぼる十年前のことで、その十年のうちでも詩想がいよいよ神しん
に入い った時期は死の前三、四年というところであろう。この創業の人に向かって、僅々きんきん
十年間に二百以上の好句をつくり出せというのは望む方が無理である」 と、子規は言う。 こういう、いわば芸術家の寿命についても子規はきわめて計数的に発想する男で、 「わが国古来の文学者や美術家を見るに、名を一世にあげて誉れを後世に垂れる人の多くは長寿の人である」
とし、古来八十五人のひとびとの寿命を分類した表をかかげている。文献の少ないこの当時に、こういう表を作るだけでも大変だったであろう。 なるほどこの表を見ると、子規の言う通り、寿命の長い人が結局は勝ちであるらしい。七十歳以上というグループにもっとも
「偉大な人」 が多く、ついで八十歳以上のグループである。六十歳以上というと、うんと数が減る。 五十歳以上の項に、尾形光琳こうりん
、山東京伝、池大雅いけのたいが
。来山陽、井原西鶴などが入り、芭蕉もここに入っている。この項のひとびとは創作時間が短かったためにやはり人数が少ない。二十歳以上といういわば夭折ようせつ
の天才たちとなると、子規のあげるところは実朝さねとも
ぐらいのものになる。このような表によっても、子規は芭蕉のためにその 「持ち時間」 の短さを嘆いてやっている。 |