子規と新聞
「日本」 の関係は、すでに学生時代からであった。入社前に、 「獺祭書屋
俳話」 などを連載したことがある。三十余回にわたったもので、あとで 「日本」 から単行本にして刊行された。もともと小冊子にすぎず、子規の若さから来る幼稚さがたぶんにあるにしても、俳句という、いわば古くさい、明治の知識人から見れば取るにも足らぬ日本のの伝統文芸に近代文学の光が当てられた最初の評論であろう。 俳句も短歌も子規によってよみがえらされたが、それまでの、とくに俳句は町の隠居の暇つぶし程度のもので、縁台の素人しろうと
将棋とかわらない。 子規は、大学予備門の頃物好きで俳句に入った。はじめはどうにもんらぬほどへたで、どうしてこれほど下手な男が俳句に打ち込むようになったのだろうと思われるほどのものだった。 夕立や はちす
(蓮) を笠に かぶり行く 初雪や かくれおほせぬ 馬の糞 というのは、明治十八年予備門時代の句である。 しかし、作るにつれて次第に上手くなった。実作をかさねて練磨したというよりも、彼は古今の俳諧をたんねんに調べることによって文芸思想として深くなり、それが実作に影響したということの方が大きい。たとえば、 「文学上の空想は又しても無用の事なるべし」 と彼の言う
「空想より実景の描写」 というその芸術上の立場は俳句というものを完膚かんぷ
なきまでに調べたところから出発していると言っていいであろう。 「 あし・・
は知的な面から文学に入ろうとする。これはよくないが、性分じゃからしかたがない」 と、子規は真之によく言ったが、とにかく彼は俳句というものを歴史的に調べようとし、その驚嘆すべきエネルギーでそれを成し遂げた。この当時、古い俳句や句集の書物はめったに見つからなかったが、子規は古本屋を丹念に歩いてそういうくず本のたぐいを買い集め、仲間にも集めさせた。彼の
「俳句分類」 はこのような努力から出来上がった。 「子規は俳句が判わか
ってから師表になったのではなく、俳句の判らぬうちから師表となったのだ」 と、子規の後継者となった七つ年下の高浜虚子は書いている。初期のころ、子規は虚子らの作品をなおしたり○をつけたりしていたが、虚子が一家をなしてからそれを見るとひどく幼稚で、要するに初期の子規は
「今考えてみるとそのころの子規は発句ほっく
が判っていなかった」 (虚子) ということになる。子規の俳句や俳論が大きく成長したのは、 「日本」 に入った時期からであろう。 |