子規の初任給の安さについては陸羯南もよほど気になっていたらしく、 「なんなら他の新聞社に紹介してやってもよい。朝日や国会
(新聞) なら、三十円、五十円でかけあったみる自信はある」 と、子規に言った。この当時の言論界における羯南の位置の重さからいえば、こういうかけあいは簡単なはずであった。 が、子規は即座に断った。 「幾百円くれても右様の社へは入らぬつもりに御座候」 と、国もとの叔父大原恒コに書き送っている。要するに子規は陸羯南という恩人のもとで働く以外のkとを考えた事はなく、結局はこの
日本」 新聞社の社員としてその短い生涯を終わることになる。 もっとも給料については羯南はその約束通り入社数ヶ月ですぐ二十円にしてくれたし、やがて三十円に上げてくれた。 勤務については、羯南は子規が病身のことでもあり、 「べつにこれという仕事もないから、毎日出る必要はありませんよ」 と言ってくれた。これは子規にとってありがたかった。 ところが後
(明治二十七年七月) の話になるが 「日本」 は、「小日本」 という家庭新聞を出すことになった。もともと 「日本」 は論説新聞で、しかも政府攻撃については最も尖鋭で勇敢な新聞でありこのためしばしば発行停止処分をうける。そういう場合の社の経済を救う別種の刊行物が必要ということでこの
「小日本」 の発行が企画された。 「家庭向きで上品な」 というのが編集方針であり、ある意味では論説新聞より作り方がむずかしい。 その編集主任に子規が選ばれた。 当初、
「日本」 の編集主任の古島一念は子規のことを、 ── どうせ浮世ばなれした文学青年だろう。 とみていたのだが、 「小日本」 を編集するようになった子規を見て意外に思った。 古島と子規については、彼が入社早々のころに挿話がある。古島は、新聞人に学歴は無用だという持論があり、帝国大学の国文科を中退したという子規の資質に多少の疑問を持ち、 「帰りに牛鍋屋
へ寄ろう」 と、さそった。子規に新聞はいかなるものかということを教えて焼き・・
を入れるつもりだった。 そのころ 「日本」 新聞は神田かんだ
雉子きじ 町の路地奥にあった。路地を出ると、両側が赤レンガ造りの店舗で、その表通りをつききると、
「中川」 という牛肉屋がある。 古島はその二階へ上がり、子規に牛鍋を馳走しながら、新聞の文章はいかに書くべきかをとうとうとしゃべったが、子規はずっと黙っている。 「終始子規は黙っていたが、次第に自分は押され気味になった」 と、古島は後に述懐した。子規はそういうことを百も承知していた証拠に
「小日本」 の編集は見事なほどであった。子規の才能にはもともと新聞をやれるような常識的な感覚がまじっていたし、事務処理にかけては社内のたれにも負けなかった。 |