子規には、数字の観念がある。俳句という十七文字を数学的に分析するという奇妙な試みをやった人物であったが、しかし、生活の中に計算機を持ち込むという才能はほとんどない。しかしそういう子規でも母親と妹と三人で東京で暮らすには、月二十五円の生活費は要るとみていた。 が、陸羯南が気の毒そうに言いわたすところでは、初任給は十五円だという。 「内規などがあって、あなただけを特別に扱うということは出来ないのです。しかしおいおい増やしてあげます」 と、羯南が言ってくれはしたが、十円の不足はどうにもならない。 いったいが正岡家というのは、未亡人が清げに暮しているというふうで、他所目
から見ると、貧というほどでもない。 大学予備門時代の終わりごろから急に親交を深め、松山の正岡宅もその家族も知っている夏目漱石は、 「僕は其形勢を見て正岡は金がある男だと思ってゐた。処ところ
が実際はさうでは無かった。身代を皆食ひつぶしてゐたのだ」 と、 「正岡子規」 に書いている。 たしかに食いつぶしていた。家禄奉還金千二百円というのは、未亡人の母親が実家の大原家にあずけ、大原家はそれを伊予で設立された第五十二銀行に預け、さらにその一部を同銀行の株にしてくれた。正岡家はそれを少しずつ引き出しては生活費に当てて来た。それでもう、二十年になる。家族が松山を引き払って東京に出て来た時は、ほとんど底をついたいたであろう。 大原家の当主は、大原恒コつねのり
である。恒コは子規の母親お八重の弟で、加藤恒忠の兄に当たり、一族の長という立場から、東京の正岡家の暮らし向きまで心配せねばならぬ位置にある。子規はこの新しい生活に入って早々、このおぞに向かい、 「毎度恐れ入り候えども」 と、金を無心する手紙を送っている。十円ばかり送金してほしいと言い、理由をこまかく述べ、 「私、生まれて以来第一の困難に陥おちい
り申し候」 と書き送っている。 母親や妹が東京にやって来た当座は、隣家の陸羯南もずいぶん面倒をみた。 なにぶん、母のお八重も妹のお律も東京がはじめてであり、このため当座のみそ・・
・しょうゆのたぐいはみな隣家から運ばれて来た。入浴まで隣家のやっかいになった。 所帯道具もどこで買えばよいのかわからなかったから、子規が買いに行った。何でも書きとめることの好きな子規は、これらの品々を記録している。 へっつい、七りん、箒ほうき
、火箸ひばし 、釘くぎ
、つるべ、杓ひしゃく 、杓子しゃもじ
、草履ぞうり 。 買うてくる 釣瓶つるべ
の底や はつしぐれ と、子規は町から戻って来るわが姿を俳句にした。 |