常盤会寄宿舎における子規の文学活動に反対した佃一予という人は、子規より三つばかり年上である。 明治二十三年に東京大学政治学科を卒業して内務省に入っているから、子規の退舎問題が起きた時は、厳密には寄宿生ではない。が、たえず出入りしていたから、舎生とかわらない。 ──
正岡に与 する者はわが郷党をほろぼす者ぞ。 と、わめきながら廊下を歩いたこともあるが、べつに狂人ではない。この時代の青春の一形態にすぎない。 佃一予にとっては官界で栄達することこそ正義であったが、事実彼は栄達した。のち大蔵省の参事官になり、総理大臣の秘書官にもなった。大阪や神戸の税関長のもなったし、さらに野望を抱き、清国に渡って袁世凱えんせいがい
の財政顧問になり、その後興銀副総裁や満鉄理事をし、子規よりも長く生きて、大正十四年六十二歳で死んだ。 佃はよほど青年の文学熱が嫌いだったらしく、明治三十年ごろ、常盤会寄宿舎の蔵書の中に子規のやっている俳句雑誌
「ホトトギス」 や小説本がまじっているというので大騒ぎをし、監督内藤鳴雪を攻撃し、窮地に追い込んだ。鳴雪は佃の前に叩頭こうとう
した。佃というより、時代精神の前に頭を下げざるを得なかったということであろう。ただ俳誌 「ホトトギス」 についてはかろうじて弁明し、 「これさえ禁ずるというなら、書生には新聞雑誌の閲読も許すなということと同じ事になる。また文科学生の入舎も禁ぜねばならない」 と、言った。 むろん佃にすれば大学に文科があるというのも不満であったろうし、日本帝国の伸張のためには何の役にも立たぬものと断じたかったに違いない。この思想は佃だけではなく、日本の帝国時代が終わるまで軍人、官僚の潜在的偏見となり、ときに露骨に顕在するにいたる。 子規のあわれさは、寄宿舎から退いただけでなく、常盤会給費生という名簿からも削られてしまったことであった。子規は、これよりさき東京帝国大学国文科に進んでいたが、このままでは学校を続けて行くことが不可能に近くなった。 が、子規はこれほど饒舌じょうぜつ
な男のくせに、この仕打ちをうらむ様子もない。元来腹を立てることの少ない性分で、それに人を恨むといったところが皆目かいもく
なく、佃一予に対しても悪声を放ったことがなかった。 もっとも、子規もよくなかった。二十五年の初夏に、二年目の落第をしてしまったいる。二度も落第するような劣等性を扶持ふち
することはない。このような強硬論があったのであろう。 子規は、退学を決意した。郷里の母親や叔父などはそのまま学業をつづけてとにかくも文学士になってくれることを切望したが、子規の決意は固かった。友人へ手紙を書き、 「小生遂に大失敗を招き候。可賀がすべし
可弔ちょうすべし 」 といった。弔すべしというのは落第のかなしみを指すが、賀すべしというのは筆一本の暮らしをすることに、かえってふんぎりがついたという意味に違いない。 |