そのような時間が真之
の上に流れている時、東京に居る子規の境涯は、必ずしも明るくはない。 病気の進行は、やっと止まった。ところがこのころ、子規は、あれだけ彼が気に入っていた常盤会宿舎を追い出されてしまった。原因は居づらくなったのである。 「正岡は、毒を撒き散らしている」 と、寄宿生のある勢力はつねに言い、事ごとに攻撃した。毒とは結核菌のことではなく、俳句、短歌のことである。 まさに毒のようなもので、せっかく立身出世の大望をいだいて国元から出て来た給費生が、子規の文学熱にかぶれて彼の二号室に入り浸りになり、句会をしたり、短歌論に熱中したり、小説本を読みふけったりしてついに多くの有為の青年が、当初の志を失うに到っている、と言うのである。 「非文学党」 とでも名づけるべきその勢力のリーダーは、佃つくだ
一予かずまさ という東京大学政治学科の学生であった。佃はのちに満鉄理事になったが、彼がリーダーであったために、この一群は佃派と言われた。 この当時の日本は、個人の立身出世ということが、この新興国家の目的に合致していたという時代である、青年はすべからく大臣や大将、博士にならねばならず、そういう
「大志」 に向かって勉強することが疑いもない正義とされていた。自然、佃一予の正義は、時代の後うし
ろ盾だて を持っている。佃によれば、伊予松山の旧藩主から給費されている書生たる者は立身を志すべきであり、立身してこそ郷党の名を高からしめ、国家の前進に寄与し、ひいては旧藩主の恩に報いるということになる。この論法には、子規といえどもかまわず、 ──
また佃が階下した で咆ほ
えているかや。 と、区会の時など、首をすくめるばかりであった。 佃一予にすれば、ふんがいの種は子規だけではない。 「監督の内藤鳴雪先生からしてよくない」 それであった。鳴雪はこういう懦弱だじゃく
な気分に痛棒つうぼう をくらわせるために舎監に選ばれているはずだが。鳴雪がまっさきに子規に弟子になってしまったのである。 「取り締まるどころのさわぎではない、あるとき二階に句会があまりに騒がしいのでそっと上がってみると、ふすま・・・
から洩れてくる高声は鳴雪先生のものであった」 と、佃一予はこぼしたり慨嘆したりすた。 子規のこういううわさは松山にまでひびいていて、子弟が上京して東京の学校に入ろうというときは、 「正岡のノボルさんには接近せぬようにおそよ。詩歌俳諧なんという遊戯にたずさわらなくても遊び様よう
はいくらもあるから」 (柳原極堂 「友人子規」) などと言って、いましめた。 こういう空気が、子規の退舎の原因になった。 |