一行の案内役には、英国駐在中に回航委員を命ぜられた加藤友三郎
大尉が当った。 この広島藩出身の大尉は真之より十期上で、 「島村速雄はやお
クラス」 というのに属していた。加藤の卒業の時の同期生は三十人で、その首席が土佐出身の島村速雄であった。その期を呼ぶとき主席の者の名で呼ぶのが初期海軍の習慣で、真之の期は
「秋山真之クラス」 ということになる。 真之と加藤友三郎は因縁に結ばれていると言っていいだろう。のち日露戦争における連合艦隊参謀長の職は、最初が島村速雄、つぎが加藤友三郎であった。真之は日本海の海上で二人の参謀長に仕えた。 「吉野は、いいぞ」 と、一行が山高帽にフロック・コートろいう姿でロンドンに着くなり、おなじ服装で出迎えた加藤友三郎が、弾はず
んだ声でそう言った。 加藤は、二年前から英国に滞在してアームストロング社と連絡しつつ吉野の造兵監督という仕事をしていた。 一行の英国の宿は、76,
Gower Streer にあるミセス・スタンレーの家である。ここが日本海軍の定宿で、いわば品川における村田屋のような存在であった。 女中頭チーフメード
にエミリーという女性がいる。よく気がついて親切で、年ごろといい感じといい、村田屋のおなおさんそっくりなところから海軍士官たちは、 「おなおさん」 と呼び、彼女もそう呼ばれることが得意で、呼ばれると本物のおなおさん以上の元気のいい声で返事をした。 (これがイギリスのおなおさんか) と、真之は相手の顔をまじまじと見てふしぎに思った。まつげが雀の毛のようであった。 「おなおさん、ビールをたのむ」 と、ためしに日本語で言った。 「Yes,sir」 と、ふしぎなほどに通じ、ちゃんとビールを持って来てくれた。 「日本語がよほどわかるようですね」 真之が加藤友三郎に言った。 「古いからね。山本権兵衛さん時代からいるから、彼女が海軍にいれば大佐だろう」 ただこのおなおさんのふしぎさはそれほど日本語が分かるくせに、自分の口から日本語の一語も出したことがないことだった。英語以外は使わぬという英国人の誇りが、この女中頭にもあるようだった。 |