真之らが、エルジック造船所で軍艦吉野を見た時、これこそ新時代の軍艦だと思ったのは、帆がないことであった。 真之がかつて少尉候補生として乗った比叡もその僚艦である金剛も、むろん蒸気エンジンはついているが、しかし汽罐
は出来るだけ節約して風力で艦を走らせることが船乗りの要件とされているし、そのような概念にあわ適あ
わせた艦であったが、この吉野はエンジンだけが推進力であった。しかも世界最高速力の軍艦なのである。 「小さいが、定遠、鎮遠ごろしの猟犬だ」 と、回航委員長の河原要一大佐は言った。そのとおり、風を巻いて走る猟犬のような、見るからに速そうな艦形をしていた。 設計は、英国造船界の俊才といわれた技師ペレットで、彼自身、一行に、 ──
自分としても英国の技術としてもこれ以上の軍艦は設計できない。 と言った。 それが英国海軍の伝統であった。日本やチリーなどの三流国から軍艦の注文を受けたとき、造艦についてのあらゆる冒険をそれによって試み、もし実際にそれを使ってみて冒険が適当であった場合は英国海軍が正式に採用する。だから軍艦吉野は中型艦としては世界最高の性能であったに違いない。 「中型艦」 というが、正しくは中艦である。ちなみに、この吉野はのちに二等巡洋艦という種類に入れられるが、このころはまだ戦艦や巡洋艦ろいう正式の区別はなかった。 戦艦、巡洋艦、海防艦、砲艦といったふうの種別ができるのは、明治三十一年になってからである。 さらについでながら、外国に注文した軍艦が出来上がった場合、これを日本に回航しして来るのはつねにその造船会社の要員によってなされていた。たとえばいま日本の
「大艦」 である扶桑、金剛、比叡なども英国人の手で日本に回航されて来たが、これが日本人の手で回航されるようになったのは、明治十九年の浪速からであった。 技術が向上したということもある。浪速の回航委員長は、大佐伊東祐亨すけゆき
であり、委員に大尉山本権兵衛が加わっていた。 なお浪速派はその同型艦の高千穂とともに英国で造られたが、同時期にフランスに注文した類似艦があり、 「畝傍うねび
」 といった。この畝傍はフランス人の手で回航された。しかしこの艦はついに日本に着かなかった。明治十九年、回航の途上、シンガポールを出たまでは確かであったが、その後煙のように消えてしまったのである。これについては様々に取り沙汰されたが、今日に至るまで謎になっている。 軍艦吉野は明治二十六年十月五日英国を出発し、プリマウス、ジブラルタル、ポートサイド、アデン、コロンボ、シンガポール、香港ほんこん
を経て、翌二十七年三月六日、無事広島県呉の軍港に着いた。 |