真之が海軍少尉に任ぜられたのは、明治二十五年五月である。 軍艦竜驤
の分隊士に補ほ せられ、翌年、松島艦の航海士に転じ、すぐその職を免ぜられ、 「英国ニ於おい
テ製造ノ軍艦吉野回航委員ヲ命ズ」 という辞令をもらった。明治二十六年六月のことである。 任官一年で英国行きとは、秋山さん、ただごとじゃないよ。将来の参謀だね」 と言ってくれたのは、ミセス・海軍ネービイ
と言われた品川のおなおさんであった。 当時、日本海軍の艦艇は、旧幕以来の碇泊港ていはくこう
として品川港を使っていた。 軍艦乗組の士官たちは航海から帰って来ると、品川の海に錨いかり
を投げ込み、服を着替えて上陸する。 品川にはこのための 「上陸宿」 というものがあり、村田屋伝右衛門といった。みなこの村田屋にとまって東京へ出かける。 村田屋に、女中頭がいる。それが、 「おなおさん」 であった。海軍士官ならばたれでも知っているどころか、彼女の世話にならなかった者はなく、彼女の方も、上は将官から下は新品少尉にいたるまで名前や性癖をおぼえこんでいる。旧幕の御家人の娘というが、言葉はやや伝法でんぽう
で、 「あたしゃね、自分に手間をかけるのがいやなんだよ、自慢じゃないが、うまれてお化粧をしたことがない」 などというが、化粧の必要がないほど皮膚がきれいで、唇はいつも乾いており、目が休みなく動いていた。真之が任官した頃は四十すぎで、この有名なミセス・海軍に挨拶に行くと、 「おどろいた。あなた、伊予?」 と、妙に感心したように言った。真之が、なぜ伊予だと驚く、と聞くと、死んだ亭主が伊予大洲藩出身の船乗りだったという。 「しかし、伊予にしちゃあんた、どす・・
が利いているね」 と言ったりした。 そんなことで格別目にかけてくれたが、こんど松島艦から降りると、すぐ村田屋へ出かけて行き、 「吉野の受け取りに行く」
と言うと、 「おやおや」 ろおおげさに驚いてくれて、前記のようなことを言ったのである。 吉野は、巡洋艦であった。 ── 巡洋艦だが、吉野は熊を追う猟犬のように定遠、鎮遠に食い下がるだろう。 と海軍内部でも言われていたし、事実その両遠・・
対策のためのみの目的で英国のアームストロング社に注文した軍艦であった。排水量は4150トンしかなく、備砲は15サンチ速射砲が四門、12サンチ速射砲が八門という軽装だったが、速力がむやみに速く、23ノットという、世界で最も船あしのはやい軍艦であった。この快速と発射速度のはやい速射砲を利用して敵の巨艦の艦上を掃射しようというものであった。 巡洋艦吉野の回航委員は十五人で、ゆくゆくこの艦の艦長になる河原要一大佐が委員長になっている。その顔ぶれは、 副
長 坂元八朗太少佐 航海長 梶川良吉大尉 砲術長 加藤友三郎大尉 水雷長 村上格一大尉 分隊長 高桑勇大尉、同西紳六郎大尉 機関長 深見鐘三郎機関少監 軍医長 萩原貫一大軍医 主計長 真野秀雄大主計 分隊長 井出謙治少尉、同秋山真之少尉、同田所広海少尉 航海士 木山信吉少尉 水雷主機 鈴木三郎大機関士 であった。
|