明治二十四年七月十日付の東京日日新聞
( 「新聞集成明治編年史」 による) に、 「清国北洋艦隊司令官丁汝昌、軍艦数隻を率
いて来航す、榎本外務大臣の丁汝昌歓迎園遊会」 という見出しの記事が出ている。見出しは大きいが、記事はわずか十四行で、場所 (後楽園) と出席者の人数ぐらいが書かれている程度に過ぎない。 これより先、この北洋艦隊は長崎に寄港したが、上陸した兵員に軍規がなく、艦隊の威力をかりて市民に乱暴をはたらいたり、物品を強奪するという事件が多発した。 そのあと神戸に寄港したが、司令官丁汝昌はふたたび長崎での不祥事が起こることを避け、兵員を上陸させなかった。 横浜では少人数ずつ上陸させた。ここでは司令官の配慮が徹底していて、何事も起こらなかった。 日本側でも、警察や学校を通じ、 ──
歓迎せよ。 という趣旨を徹底させていたから、清国側を挑発するような事件は起こらなかった。 横浜に上陸して南京なんきん
町あたりを見物している清国水兵の服装は風変わりであった。水兵服ではなく、麦わら帽をかぶり、水色の羽二重はぶたえ
金巾かなきん の服に赤い帯をしめている。港内の清国軍艦には、黄竜旗がひるがえっていた。
丁汝昌らは、後楽園で榎本外務大臣の招待を受けたあと、日本の各界要人に招待状を脱出し、旗艦定遠において懇親会を催した。 「余もまた招かれた一員にて」 と、当時衆議院議員で、東京日日新聞社長を兼ねていた関直彦が書いている。彼らは艦内くまなく案内され、問題の30・5サンチの主砲操作の実演も見せられた。 「どうじゃ、えらいものを持っているだろう、とても日本は及ばないぞと言わぬばかりの態度を示されたり」 と、関は言う。さらに港に浮かんでいる日本軍艦を見るとその貧弱さが目だった。ただかろうじて乗組み将士の状態は士気旺盛おうせい
とはいえない。実戦にのぞんでは日本将士の敵ではない」 と、関はみずからを慰めている。 この北洋艦隊の日本訪問は、はたして清国にとって外交上成功したかどうか、結果としては疑問であった。 この朝野の衝撃が、日本海軍省にとっては建艦予算を取る仕事を容易にした。会議はそのぼう大な海軍拡張費に対し大いにしぶりはしたが、政府は天皇を動かしたり、世論を喚起かんき
したり様々ないきさつを経て、海軍拡充計画を実行して行った。 のちの日清戦争には間に合わなかったが、富士、八島やしま
という二大戦艦を外国に注文することが議会で承認された。さらに北洋艦隊来航以前に注文していた厳島いつくしま
、松島、橋立といういわゆる 「三景艦」 がこの明治二十四年夏には竣工 (橋立のみは遅れた) しようとしていたし、さらに快速巡洋艦吉野も、二、三年後には英国で完成するはずであった。 |