〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-W』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(一)
 

2014/11/12 (水) 

軍 艦 (五)

世界中の国々が、 みあうようにして国力伸張の競争をしている。その象徴が軍艦であったであろう。
維新成立後二十余年をへた日本も、多少の軍艦をそろえた。が、列強の東洋艦隊のそれから見ればその性能は論外で、老朽艦ろうきゅうかん や鉄骨木皮の軍艦が多く、鉄鋼をもって造られている軍艦といえば、高千穂、扶桑ふそう 、浪速、高雄たかお筑紫つくし ぐらいのものであり、それも三千トンから千トン台の小船で、とうてい海上の威力にはなり得ない。
明治政府の方針とて大艦や中艦は外国から買うが、砲艦程度の小さな船は国産でゆくということになっており、この計画で何隻かの国産艦が横須賀造船所で出来上がった。たとえば897トンの清輝 (木造) などはそれであり、この清輝は明治十年に出来上がるや、十一年、わが国の 「国威」 を示すために一年がかりでアジア・ヨーロッパの諸港を巡訪し、遠洋航海に成功した。
このかん 、隣国のしん 帝国もようやく近代化にめざめている。 鴻章こうしょう が宰相になり、艦隊を整備しはじめたのは明治十二年ごろからであり、大国だけにその規模は最初から雄大で、
   北洋
   南洋
   福建
   広東
という四大艦隊を併立させ、あわせて軍艦八十二隻をもち、そのうち対日本防衛のための北洋艦隊が最大であった。もし中国大陸にその後内乱がおこなわれず、この艦隊を維持発展させていったとすれば、日本を含めたアジアのその後の運命はおそらく今日のようではなかったに違いない。
李鴻章の政治的構想力の規模がよほど大きかったという証拠のひとつは、世界最強の戦艦を二隻整備したことであった。
   定遠ていえん
   鎮遠ちんえん
がそれであった。
造ったのはドイツのフルカン造船所で、舷側げんそく の装甲は厚さ30サンチの鋼板というほとんど浮沈艦というべきものであり、排水量は37335トン、速力は14.5ノット、主砲としては、なんと口径30.5サンチ (12インチ) という当時の日本人の感覚では化け物としか思いようのない巨砲を四門も備え、そのほか15サンチ砲二門、7.5サンチ砲四門を備えている。
しかも定遠・鎮遠は、日本軍艦にない物を持っていた。砲塔であった。大砲は砲塔の旋回によって運動するというものであり、その砲塔も厚さ30サンチの鋼板でよろ われている。
真之らが遠洋航海から帰って来た明治二十四年の七月、清国北洋水師 (艦隊) の提督てい 汝昌じょしょう は、
── 親善のため。
という名目でこの両艦および、経遠、来遠、到遠、靖遠の六隻を率いて横浜港に入って来たのである。当然ながら、外交上の威圧を目的としていた。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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