〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-W』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(一)
 

2014/11/12 (水) 

軍 艦 (三)

比叡と金剛は、
 十月五日 横須賀出航
 同  七日 神戸入港
という日程で神戸に入り、検疫所に収容されている六十九人のトルコ軍艦生存者を両艦にわけて搭乗させた。
(ずいぶん顔がちがう)
と、真之は思った。トルコ人というのは大昔は中央アジアの草原で遊牧していた騎馬民族で、言語学の通説ではその言葉はモンゴル語や日本語と同じくウラル・アルタイ語族に属している。顔つきも日本人に近かったのであろうが、その後中近東の多くの民族と混血するうちに固有の顔かたちを失った。
トルコ人が勃興するのは十三世紀の初頭である。モンゴル人の征服事業に刺戟されてか、この種族もそれにならって西征し、アルメニアに移り、この前後回教文化を手に入れた。十五世紀の半ば、コンスタンチノーブルを占領して東ローマ帝国を滅ぼし、十六世紀にはハンガリーを征服し、その艦隊は地中海に をとなえてヨーロッパの脅威になった。このころが、トルコ人によって代表されるアジア人のエネルギーの最高潮の時期であったであろう。
そのころのトルコ人は、キリスト教国を圧迫することをもって宗教的任務としていたようであった。元来が中央アジア人であったこの民族は、固有の文化というものがあまりない。宗教はアラビア人から借りた。ズボンとはきものはサラセンから借り、服の上着はペルシャ人から借り、ターバンはインド人から借りた。なによりも嫌いなのはキリスト教であり、西洋の文化はいっさい受け付けず、キリスト教国を圧迫することにその宗教的使命感を持っていたようであった。
ところが、十七世紀ごろから、東西の形勢が逆転したらしい。
コンスタンチノーブルを中心とする回教文明が停頓した一方、西欧文明が大いに勢いを得、西欧諸国の国力が相競うようにしてあがり、十九世紀に入るとトルコは国政が乱れ、民族的気魄きはく が衰え、その衰退が決定的な形になった。
1878年、日本の明治十一年のベルリン列国会議で、トルコの領土の多くが列強の分け取りになった。さらにそれから数年後にチュニスをフランスに奪われ、エジプトをイギリスに取られた。
「アジアにあったはトルコは凋落ちょうらく したり。かわって日本が立つべきなり」
と、艦上を歩きつつ、それを詩句のようにしてとなえている士官がいる。ときに帝国主義の時代であり、いわばオリンピック選手団がその競技の勝敗に国威を賭けるような、その程度に単純な勝負意識の昂揚であったといえるであろう。そういう時代に真之の青春が位置している。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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