卒業は七月である。 と同時に少尉候補生になり、練習艦隊に乗組んで実地の訓練を受けるというのが海軍教育のしきたりであった。 練習艦には
「比叡」 と 「金剛
」 が選ばれた。どちらも明治十一年に英国から買い入れられた姉妹艦で、2284トン、この国のこの時期の海軍では有力艦として数えられていた。 練習は、遠洋まで出ない。 日本沿岸をまわる。七月、江田島を出航して様々の練習を重ねつつ、太平洋岸を東に向かっていた時、遠州灘えんしゅうなだ
で外航船とすれちがった。 旗によって、トルコ軍艦とわかた。艦名はエルトグロールと言い、日本に国交親善の使節を送るべく来航し、いま帰国の途につこうとしていた。 「トルコは極東のシナとともにアジアにおける一大民族であるが、マホメット教を信じるがために風俗はいちじるしく異なる。その皇帝アブズル・ミハド二世はトルコ国を近代化すべく努力しておられるが、わが明治十年から翌年にかけてロシアと戦争し、敗北した。このため領土がはなはだ小さくなったが、なお大国たるをうしなわない」 と、比叡艦上で教官が講義した。 艦は、風によって動く。 むろん蒸気機関はすわっているが、この頃の軍艦は原則として風力を利用し、蒸気力は港の出入りとか、よほど風のないとき以外は使わなかった。 船乗りとは風のあやつり手のことであり、帆ほ
を操作してたくみに風を受ければつねに五ノット前後の速力を出して波を蹴って行くことが出来た。 風のつごうがよいと、ときにそれ以上、たとえば八ノットも出た。その時は全艦水兵にいたるまでが上機嫌になり、文字通り、 ──
走ること矢のごとし。 という実感であった。この快感は帆走はんそう
の経験者にみが知るものとされ、その後に出現する無帆の機械力航走船の時代になっても古参の連中はこの帆走時代の快適さが忘れられず、後輩を威喝いかつ
する時は必ずこれを言って自分の過去を誇った。 比叡、金剛は、横須賀に入った。 九月に入って台風が多くなり、出航出来なくなった。とくに十六日には大いに吹いた。 この九月十六日の台風で、意外にも例のトルコ軍艦が紀州沖で沈没した。 詳報は数日して入った。 熊野灘くまのなだ
でそれに遭あ い、陸地に吹き寄せられ樫野崎かしのざき
灯台の下で沈没し、トルコ国の親善使節である海軍少将オスマン・パシャは溺死し、艦長以下五百八十一人という多数が死んだ。 生存者はわずか六十九人だという。 彼ら生存者はとりあえず樫野崎燈台のわきに収容され、ついで、神戸に送られて兵庫県の手で保護されたが、政府ではこれらを比叡、金剛でトルコまで送ることを決めた。 このことは真之らを喜ばせた。初の遠洋航海が出来るからであった。
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