とにかく、真之は卒業した。 ──
勉強をせずに首席になった。 というのは、下級生にいたるまでの評判であった。 真之が最上級の一号生徒のとき、入学して来た者に伊予大洲
出身の竹内重利しげとし という生徒がいる。のち、中将になった。 「伊予大洲は六万石の小藩で、全校で自分ひとりしかいない」 と、この人が後年、わざわざ語っているように、この当時、兵学校では藩閥ごとにかたまっており、真之より一級上の広瀬武夫がこの打破のためにずいぶん奔走したが、世間一般がそうであるため改まれなかった。 竹内重利がさびしがっていると、入校後最初の日曜日の朝、突如
「一号生徒首席」 という真之に呼び出され、 ── おれについて来い。 と、命ぜられ、学校を出た。 島に、小用こよう
村という小さな聚落しゅうらく
がある。そこに真之ら伊予出身の者はクラブとして部屋を借りており、日曜ごとに集まって酒を飲んでいた。この日、竹内重利が行くと、すでに二人の上級生が部屋に陣取っていた。 「松山藩山路一善やまじかずよし」 「宇和島藩酒井那三郎」 と、彼らは自己紹介した。伊予出身者は要するに四人であった。 ──
学課でも訓練でも薩摩に負けるな。 と、真之は訓戒を垂れた。諸旧藩の出身者がそうであったようにこの郷党ごとの団結は、要するに 「薩藩海軍」 への反撥ということもあったに違いない。 真之は卒業する時、竹内重利を呼び、 「これをやる」 と、書類の束を、どさりと置いた。見ると入校してから卒業までの大小の試験問題集であった。真之の入校以前のものもあり、入校後のものもある。 「これが過去五年間の試験問題だ。教官というものは癖へき
があって、必要な問題はたいていはくり返して出す。それにあわせて、平素から教官の顔つきや説明ぶりをよく観察してその特性を見抜いておけ。その二点をわせ察すればおのずから何が出るかということが分かる」 と言った。 「しかしそれは卑怯ではありませんか」 と言うと、 「試験は戦と同様のものであり、戦いには戦術が要る。戦術は道徳から解放されたものであり、卑怯もなにもない」 竹内重利がその問題集をのぞくと、どの問題にも鉛筆で解答の要点が書いてある。その記入法がじつに簡潔で要領を得ており、 ──
凡人の模倣もほう し得ざるところであった。 と、後年回顧している。 「秋山真之にとっては兵学校教育は平凡でむしろ苦痛だったのではないか」 とも、この人は言った。 真之の性格と頭脳は創造力がありすぎ、既定のことをいちいち覚えてゆくことに適していなかった。
「秋山真之が、その天才的作戦家としての道を歩むのは、彼が兵学校を出てその教育的強制から解放されてからのことである」 と言っている。 |