〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-W』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(一)
 

2014/11/11 (火) 

馬 (十二)

好古は、戸口に立っている。
── 言おうか。
と何度か思ったが、山県がしきりにドイツを礼賛している最中に、フランス式乗馬術の優越性を説くのは水をさすようで、悪いような気がした。
が、言わねばならないと思った。ここで言わねば、日本の騎兵は、あの非合理なドイツ式乗馬の金縛かなしば りにあって身動きが取れなくなるであろう。
むろん、上級者に対して発言を求めるについては段階を踏まねばならない。まず随行員の長にその諒解をもとめる必要がある。
随行長として、少佐がいた。
好古はその少佐の椅子に近づき、自分は騎兵大尉秋山好古であります、と名乗った。
少佐は、
「何を言っているんだ」
と、小声で叱った。この少佐は好古とおんじ騎兵の平佐ひらさ 是純これずみ で、いま陸軍監軍部 (のちの教育総監部) に属しており、日本にいる時は好古が提唱してつくった騎兵会の幹事をしていたから、兄弟の仲いったほどに親しい。平佐があきれたのは、好古がフランス けで自分をわすれているのかと思ったのである。
「遅参したり、おれの顔を忘れたり、どうかしとりゃせんか」
「いや、ちがうのです」
好古は、なだめるように言った。そこまで留学呆けはしていないと言い、ただ重要な意見具申ぐしん をしたいのであらたまって申上げたまでです、と言った。平佐少佐は諒解し、ところで何事を具申したい、とその内容を聞いた。
「馬術のことです。この点だけはドイツ流を採用なさってはならぬということを申上げたいのです」
「そりゃ好都合だ。おれもどうもあのドイツ人の馬の乗り方には無理があると思っていた。遠慮はいらぬからやれ」
と言い、平佐は立ち上がって山県のそばへ行き、耳うちをした。
山県はうなずき、
「秋山大尉、きみは伊予松山だったな」
と記憶のいいところをみせた。好古は、この社会でいう不動の姿勢をとった。騎兵ズボンの腰がはちきれるほど肉がつきはじめている。
「申上げたい結論は、馬術という一点においてはドイツ式が欧州馬術の定評になるほどに欠陥があり、フランス乗馬術がきわめて優越性に富んでいる、ということであります」
と、言った。こいいう、結論から意見を出発させてゆくという方式も、メッケルが日本陸軍に教えたところであった。
山県は、いちいちうなずいた。が、山県にすれば陸軍をドイツ式に切り替える以上、システムそのものをごっそり移植すべきであり、細部の一長一短を論じて一部に仏式を残しというのはかえって全体のシステムの力を ぐと思っていたから、さほどの反応を示さなかった。要するに 「考えておく。そのことをさらに研究しておくように」 と言った。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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