〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-W』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(一)
 

2014/11/11 (火) 

馬 (十三)

たとえばこの山県有朋のような、この時代の指導的軍人の基礎技術はどうというようなものはない。
彼が自分で出来る軍事技術といえば、宝蔵院流の槍術だけであった。この人物は長州藩の五人扶持ぶち の足軽の家に生まれ、少年の頃その階級のために屈辱を受けることが多かった。
旧幕時代は身分が固定していたとはいえ、例外的な道がないことはなかった。身をおこすには学者として傑出するか、武芸者として万人に秀でるか、いずれかがある。山県の家は足軽とはいえ父親がいっぱしの国学者で、山県にその道をさずけた。山県はこれによって晩年にいたるまで調しら べのととのった和歌を詠むことが出来たが、それよりも彼は槍術で身を立てようとし、それを学び、二十二歳で免許皆伝を得た。彼は晩年、明治天皇の御前でみずから志願して槍術の専門家と試合をしたことがあるが、これだけが彼のいわば 「軍事技術」 であった。
馬術は知らない。
むろん旧幕時代、奇兵隊軍艦として馬に乗り、戊辰戦争では北越に戦って馬には乗ったが、乗れるだけのことであり、ドイツ式やフランス式どころか、日本の大坪流とか何流とかも学んだことはない。
が、ものごとについてのかん・・ と理解力がどうやら人よりもすぐれていたらしく、好古の言うことはすべて理解できた。そういうものごとの理解力とともに今ひとつ彼において発達していたのは、他の明治草創期の指導者たちと同様、人物の選定眼であった。
人間の能力を選別してそれに一分野を担当させ、それを支援するだけで一分野の建設は一人物に任せてしまう、とう方法であった。要するに彼は秋山好古という三十になったかならずの一大尉に日本の騎兵建設は任せておく、ということであろう。
もっとも、山県は好古についてはその評判を聞いていたが、詳しくは知っていたわけでなく、それと言葉を交わしたのはこのパリでの機会が最初だったといっていい。
パリ滞在中は、好古を案内役の一人にした。ちょうど悪い時期で、フランス陸軍の高官の多くがパリを留守にしてリヨンにいた。山県はその一人に日本から持参した土産物みやげもの を届けようし、その使者として好古を選んだ。
ところが好古は、ほどなくパリに戻って来た。
「なんだ、ばかに早かったじゃないか」
と、山県が驚くと、好古は恐縮し、じつはそのお土産物のことでありますが、と言った。汽車の中で酒を飲んでいるうちに紛失してしまい、やむなく途中から引き返して参りました、と言った。
酔っ払って眠っているうちに盗難にあったらしい。
山県は、あきれた。秘書や副官のつとまる男ではなさそうだと思い、その後はその種の用事を命じなかった。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ