〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-W』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(一)
 

2014/11/11 (火) 

馬 (十一)

やがて山県有朋は、大勢の随員を連れてパリへやって来た。
  陸軍中将
  内務大臣
というのが、この当時の彼の肩書きである。すぐさま、日本公使館に入った。
好古ら政府留学生は、公使館の玄関においてこの日本政府の要人を迎えねばならない。とくに好古にとっては陸軍の高官であり、こういうばあいはその見学の案内をしたり、身辺の世話までするというのが通例になっていた。ところがこの日の前日、パリ郊外で騎兵連隊の演習があり、好古はそれを見学したため、そのあとにパリに戻って来て公使館に入ったときは、例の 「玄関迎え」 をするどころか、山県はすでに奥の貴賓室きひんしつ に入ってしまっていた。
「何をしていたんだ」
と、加藤恒忠は、さすがに苦い顔をし、この友人ののほうず・・・・ さを責めた。
加藤は生涯山県有朋という人物を好かず、このときも外務省交際官として山県の滞仏中の案内をせなばならぬことを前々から嫌がっていたが、
「そのおれでも、今日は駅頭まで出迎えに行っている。君は、陸軍の武官ではないか」
と、小声で言った。陸軍の現役軍人であるかぎり山県の機嫌をそこねてはとうてい栄達は出来ない。
「わかっている」
好古は言い捨て、平気な顔で貴賓室に入って行った。中央の椅子に山県が腰をおろしており、ほかに二十人ばかりの文官、武官がすわっている。好古は気まずかった。
山県が、目をするどくして戸口を見た。こういう場合の山県の小うるささは定評があり、はたしてひげ・・ の下から声を出した。
「君は、たれかね」
好古は、不動の姿勢をとった。
「陸軍騎兵大尉秋山好古であります」
あります・・・・・ という軍隊用の敬語は、ふつうの日本語にはないが、長州弁にだけそれがあって、山県が正式の軍隊語としてそれを採用したと好古は聞いている。
山県は、うなずいた。
それだけが山県との交渉であった。このあと、山県はフランスに来ているくせにドイツの話ばかりをした。
「わしにとってもベルリンは二十年ぶりであったが」
と言う。
「面目がまるで一新している」
普仏戦争の刺戟やその勝利によって償金が入ったことなどで商工業がおおいに興り、町の景が大いに変わってしまったらしい。軍備の充実ぶりは目を見張るばかりだが、奇妙なことに学問の世界までも、
碩学せきがく 大家彬々ひんぴん として輩出している」
と、山県は漢文的表現で言った。彼はドイツの行政学者であるグナイストに面会し、その地方自治についての意見を聞いたのだが、
「イギリスにもおらぬほどの学者らしい」
と、そんな形容をして礼賛した。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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