「その程度が、日本のドイツ認識だった」 と、加藤恒忠は言う。 加藤は、外務省の交際官だけに日本政府の対外接触史ともいうべき事柄をよく知っていて、好古に話して聞かせた。 「陸軍のドイツ傾斜のそもそもは、一個の偶然からはじまっている」 と、加藤は言う。 現在、陸軍長州閥の寵児
として山県から愛せられている少将桂桂太郎のことである。桂は戊辰戦争に従軍し、事がしずまったあと、横浜でしばらくフランス語を学び、そのあと命令によって大阪兵学寮に入れられた。彼は海外留学をしようと思い、むりやりに退学して長州の先輩に乞い、その便宜をはかってもらった。 結局、渡欧し、明治三年の暮れ、ロンドンに到着し、すぐ日本の弁務使館
(公使館) に行ってフランス行きの手続きをとろうとしたところ、そこに居た青木周蔵から、 「君は軽気球をもっているのかね」 と、言われた。青木は桂と同じ長州人で、明治初年にドイツに留学し、のちドイツ公使になった男である。いまフランス人はドイツ軍に席捲せっけん
されつつあるという。すでにセダンの要塞が陥お
ち、ツール、ストラスブール、メッツの諸城塞も陥ち、今はパリはドイツ軍の重包囲下にあり、フランスの内相ガンベッタのごときは軽気球に乗ってパリから脱出したというニュースがロンドンの話題になっていた。 桂は、とほうに暮れた。彼は日本を発つ時、日本陸軍の傭やとい
教官であるフランス陸軍のビュランという少尉からパリのある士官あての紹介状をもらっていた。 「いっそ、勝っているドイツへ留学したらどうだ」 と、青木周蔵からなかば冗談で言ったことが桂の運命を決定した。桂はベルリンへ行き、そのまま三年半滞在した。ちなみにこの時の桂の身分は、兵学寮を退学しているため陸軍軍人ではなく、一介の書生であるに過ぎない。自然、留学の形式も私費留学ということになっていた。 先ず最初の一年はドイツ語を覚えることに専念した。単語のカードを作り、毎日十語ずつ覚えた。桂は記憶力のいい方ではなかったため、それ以上は覚えられず、結局半年に千八百語を覚えた。単語を抜き出してくるもと・・
は独仏辞典で、桂が多少フランス語を知っていることが、彼のドイツ語理解に多少役立った。 一年後に、彼は下宿を変えた。彼は政府留学生でなかったために軍学校に入ることができず、結局、軍人の家に下宿することによってドイツ軍事学を知ろうとした。彼が経宿したのは予備役陸軍少将であるパリースという老人の家で、このパリースから多くの軍事知識を得た。 その桂が帰国して陸軍大尉になり、その後機会あるごとに日本陸軍をドイツ式に変える事の利点を省内で力説し、とくに山県陸軍卿を説き、ほとんど十年がかりで山県を教育し、ついに彼をドイツ好きに変えてしまった。 その山県が、いまベルリンまで来ている。 |