〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-W』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(一)
 

2014/11/10 (月) 

馬 (九)

山県有朋がマルセーユに上陸したのは明治二十二年の正月である。当然パリへ向かうべきところ、彼は先ずベルリンに向かった。
「ドイツ病だな」
と、パリ駐在の交際官である加藤恒忠は好古に言った。加藤はさらにほんの十数年前まで日本政府にドイツについての認識がほとんどなかったことを好古に語った。
「東京大学医学部がまだ東校といっていた明治四年、はじめてドイツ人のホフマンとミューレルの二人を招いたが、その講義を通訳できる医者は日本に一人しかいなかった」
と、加藤は言う。
その通訳は、司馬凌海りょうかい という。幕末に出現した洋学者で、経歴は古い。この人物が世間に出てくるについては、奇縁がある。
旧幕府がオランダから医師ポンペ・ファン・メーデルフォールトを招いたのは安政四 (1857) 年だが、このポンペを教師として幕府は長崎ではじめて官立の洋医学塾を開いた。
塾というが、門人は一人である。その一人の門人も、幕府の任命によるもので奥医師の松本良順りょうじゅん (のち順) であった。この時期の幕府はなおも夷人いじん と日本人がほしいままに接触することを恐れ、良順にのみポンペと直接接触する資格を与えたのである。
志願者は、他にも多かった。幕府はそれらに対し、良順の門人という資格でそれを黙認し、ただしポンペの直接授業は受けさせず、良順から学ぶという形式をとらせた。
良順にすれば自分の医学修業だけで手いっぱいなはずであり、できれば言葉のできる助手を得、その助手をしてポンペの授業を他の門人に伝えさせたいと思い、適任の者をさがした。
ふと良順が思い出したのは、司馬凌海である。語学の天才というべき少年で、凌海が江戸でオランダ語を修業中、良順に接していたが、その後、故郷の佐渡に帰っていた。
良順はその凌海を佐渡から呼び寄せた。凌海十九歳の時である。
長崎では、良順はこの助手と共にポンペの授業を受けた。凌海はポンペのオランダ語を即座に漢文でノートしてゆき、そのノートをもって他の門人に伝達した。
彼が語学の天才であったことは、この長崎滞在中、中国人と交際し、たちまちその言葉をおぼえ、漢詩のやりとりまでして中国人たちを驚かせたことでもわかる。
明治後は一時政府に仕えたりしたが、彼が死ぬ明治十二年までの間に、英、独、露の三ヵ国語をおぼえ、さらにギリシャ語とラテン語までおぼえた。
この凌海が、前記、東校の通訳になったが、ミューレルはそのドイツ語の達者さに驚き、
── あなたは何年ドイツに居たか。
と聞いたほどであった。むろん凌海はどの外国へも行ったことがない。ただ凌海は奇行が多く、飲んだくれであったため、深酒をすると翌日学校を休んだ。通訳の凌海が休むと、自然、授業は休みであった。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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