そういう時期、この当時の日本陸軍の総帥
というべき山県有朋がヨーロッパ視察旅行の途にのぼった。 山県は、旧長州奇兵隊士のあがりである。幕末でこの人物のはたらきは長州での藩内活動がおもで、いわゆる志士たちの間で名が知られているという存在ではなかったが、維新が彼の運命を飛躍させた。 この点、革命ほど人間の運命に奇蹟をもたらすものはない。幕末から維新にかけて、長州藩には軍事的才能を持った者が奇妙なほど少なかった。わずかに作戦家として山田顕義あきよし
、それに実戦家としてこの山県有朋がおり、その上に大村益次郎という天才がいたにすぎない。 山県にとって幸運だったのは、その大村が維新成立後ほどなく兇刃きょうじん
にたおれたことである。さらに山県の競争相手である山田顕義が他からあれほど期待されていながら、一種の心情不安定といったふうの性行がわざわいしてふるわなくなり、やがて
「長ちょう の陸軍」 は山県有朋のひとり舞台になった。 山県における軍人としての才能、見識というものは、どれほどのものでもなく、彼程度のものなら、当時の諸旧藩をながめれば掃は
くほどいたであろう。しかし、革命の成果は薩長が独占している。他藩出身者は革命官僚群の主流には参加出来ない。 山県に大きな才能があるとすれば、自己をつねに権力の場所から離さないということだり、このための遠謀深慮は彼の芸というべきものであったが、同時にこの新しい国家の建設のためによく働きもした。それについての彼の芸は、官僚の統御であった。官僚たちから意見を出させ、その意見群の中から適当なものを選び、それを組織に命じて実行させてゆく。山県はなまじい彼自身が才物でなかったから、こういう官僚統御がたれよりもうまかった。 彼の活躍範囲は、軍部だけでなくほとんど官界の各分野を覆おお
ったが、明治二十年前後におけるその官歴を見ると、陸軍卿、参謀本部長、内務大臣などを歴任している。年、五十一である。 「御用これあり、欧州諸国を視察すべきこと」 という沙汰さた
が下ったのは、明治二十一年の十月である。 「御用」 というのは欧州の地方自治制の視察である。このころ日本では民間の要求もあって地方自治制の実施は時間の問題となりつつあった。 が、それだけが御用ではなく、
「フランス陸軍に釈明するという御用・・
も含められている」 というのが、フランスにおける日本軍人たちの間でうわさになっていた。 この明治二十一年に日本陸軍が、在来のフランス式からドイツ式に切り替えた事についてフランス陸軍はそれを不快としている。それにつき、山県は日本陸軍の代表として釈明を兼ねて在来の恩誼おんぎ
を謝し、詫びるべきところは詫びるということになっていた。 |