余談ながら、 「猿」 という、みじめなあだながこの当時の日本人に冠せられている。容貌が猿に似ている、ということでもあるが、要するにヨーロッパ文明を猿まねしようとする民族、という意味であろう。 ちなみに、この日本人の猿まねについては、最初にはげしく軽蔑したのはヨーロッパ人でなく、隣国の韓国であった。日本が維新によって大変革を遂げ、開国するとともに髷
を切り、洋服を着、鉄道を敷き、ヨーロッパで勃興ぼっこう
した産業分明に追っつこうとした。 「人にして人にあらず」 と、韓国の公文書はいう。 さらに別な文書では、 「シニ形 (髪形や服装)
ヲ変ジ、俗 (しきたり) ヲ易か
ユ。コレスナハチ日本人ト言ウベカラズ」 とし、だから国交しない、国交したければもとの風俗になって出なおせ、と言う。日本は明治元年から同六年まで韓国に対し国交を要求したが同国はついにこの強硬な態度をくずさなかった。この当時韓国は清国の保護国であり、あくまでも中国ふうの儒教国家であるという建前を守り、西洋化を嫌悪した。 アジアにあっては日本国だけが勃然ぼつぜん
として洋化を志し、産業革命による今世紀の文明の主潮に乗ろうとした。旧文明の中に居る韓国から見れば狂気と見えたであろうし、ヨーロッパ人から見れば笑止な猿まねと思えたに違いない。 日本にあっては一国のあらゆる分野をあげて秀才たちにヨーロッパの学問技術を習得させつつあったが、一軍事技術者である好古の立場は、ことがらが軍事だけにその物まねは息せき切った火急の事柄になっていた。 とくに、馬術である。 好古に課せられた多くの事柄の中に、フランス風馬術の真髄を身につけて、帰国後、日本人たちに教えねばならぬということがあった。 それを、励はげ
んだ。 ところが滞仏中に、日本陸軍がフランス式からドイツ式に切り替えるという旨の公示が正式に発せられた。 むろん、日本を出るときからこれは覚悟していたが、正式に公示されてみると、やはり好古としては動揺せざるを得ない。馬術は、フランス式とドイツ式では、まるで違うのである。 第一、これを聞いたフランス軍人は、ことごとく日本の措置そち
を不愉快がった。 「日本人はよくない」 と、露骨に好古に言う士官学校教官もいたし、日本人は恩を知らないのではないか、という者もいた。 ドイツ式馬術を悪口する者もいた。 「あんなものは、馬術ではない」 と、彼らは言った。 「秋山もパリをすててベルリンに行きたいのではないか」 という者もある。 好古は、どの問いに対しても微笑わら
っているばかりで何も言わなかった。一大尉の分際で、外国人に向かって自国方針を論評したところで、甲斐がない。 |