好古のフランス留学は現役将校としては長く、足かけ五年にもおよんだ。途中、 ──
秋山がパリで窮迫しているらしい。 とうわさが本国に聞こえた。同時にこの留学で好古の騎兵研究が飛躍的に進んでいるといううわさも聞こえ、 「日本騎兵は、秋山大尉の帰国によってはじめて騎兵らしくなるだろう」 という期待も持たれていた。 それにしても私費留学はあわれすぎるという同情論が陸軍省の一部で起こり、明治二十三年一月、パリにある好古は本国から新しい命令と訓令とを受取った。 ──
官費留学に切り替える。 ということである。その 「学資金」 は、一ヵ年六百円であった。六百円あがった。 もっともこの時期、好古はサンシールの士官学校の宿舎で猛烈な熱病でたおれていた。 外務省の加藤恒忠がこれを聞き、おどろいて訪ねると、好古はシャツの胸をはだけて寝ている。胸に赤い発疹
が出ていた。 「病名は?」 と聞くと、好古は、熱で顔を真っ赤にしながら、知るもんか、と言った。この人物はどういうわけか医者が嫌いだった。 「医者にみせろ。サンシールにも軍医ぐらいはいるだろう」 「何を言いやがる」 と、好古は相手にしなかった。 加藤は数日通って病状を見守った。好古の顔がかぼちゃのようにはれぼったい。高熱で目が充血し、悪寒おかん
がするらし。ときに意識がおぼろげになり、うわごとなどを言った。 (これは傷寒しょうかん
だ) と、素人目しろうとめ
にも思った。 ヨーロッパ医学でいえば発疹はっしん
チフスで、死にいたることがある。が、この当時、特効薬がなかった。 加藤が驚いたことには、好古はこれほどの高熱に漂ただよ
いながら、めしどきになると起き上がって士官学校の食堂まで行く。 (医者ぎらいもここまで行けば狂人だ) と思った。 「チフスではないか」 と、加藤はあるとき好古に言った。好古はべつに驚きもしなかった。 「チフスなら、大変なことだぞ」 「わかっている」 と、好古は枕の向こうの書棚を指さした。そこに内科全書がひろげたままで置かれていた。チフスの項が出ている。加藤の察するところ、好古はそれを読んで自己流の手当てをしているらしい。 こんなことで、ついに強引になおしてしまった。あとで、好古は言った。 「国辱こくじょく
じゃからな」 という。医者に診せることは、である。妙な理屈だが、同じ時代に生きている加藤恒忠にはよくわかった。留学日本人が発疹チフスにかかって士官学校のフランス人たちをさわがすということが、どうにもはずかしい。この種の心情は、パリで無我夢中で背伸びをせざるを得ぬ日本留学生の共通したものであった。 |