「実はな」 と、藤野老は言った。 好古のほかに仙波
太郎はどうかとも考えていたという。 仙波も、旧松山藩出身の陸軍将校である。彼は好古よりも四歳の年上で、士官学校は好古より年次が上の第二期生であった。歩兵科に籍を置き、陸軍大学校が開かれるや、好古とともにその第一期生となった。 後年、陸軍中将になり、昭和四年七十五歳で没。桂太郎、宇都宮うつのみや
太郎とともに陸軍の三太郎と呼ばれた。 仙波は、武士のあがりではない。 藩領の久米福音寺というところの庄屋の子として生まれた。旧藩時代、生家は裕福で知られたが、維新の変動で没落した。仙波太郎は少年の頃、魚の行商になり、荷をかついで松山の城下をながしてまわった。好古が風呂焚きをしていたころより少し時期が早いであろう。 「城下はせまい、仙波が陸軍に入ったとき、 「あの魚売りが、陸軍に入ったげな」 と、人びとはうわさした。 彼の陸軍での生い立ちは、児玉源太郎と同様、下士官からたたきあげている。教導団と言われる下士官養成所に入り、士官学校が創設されるや軍隊の中から受験し、入学を許された。 陸軍大学校の頃、仙波は酒を飲むと、 「わしは、百姓の出だ」 と、よく好古に言った。おまえのように士族ではない、という。士族に対して一種の敵愾心てきがいしん
を持ち、平民であることに強烈な自負を持っていた。 「御一新で、おれの家はつぶれた。この御一新での被害は士族と変わらないが、しかし御一新については少しも恨んでおらぬ」 と言う。仙波に言わせれば、平民の子でも刻苦勉励こっくべんれい
すれば立身することが出来る、これは御一新のおかげでありこの国をまもるためには命を捨てる、と言った。 立身出世主義というのが、この時代のすべての青年を動かしている。個人の栄達が国家の利益に合致するという点でたれ一人疑わぬ時代であり、この点では、日本の歴史の中でもめずらしい時期だったと言える。 「ところが、仙波は」 と、藤野老が言った。 「藩士ではない」 百姓である。百姓の者に対して、藩主の御用によって渡仏せよなどという無理はいえぬ、よ藤野は言う。 「仙波に断られたのでしょう」 と、好古ははじめて口を開いた。そうに違いなかった。仙波に言わせれば、封建の頃の旧藩主がおれにおいて何のことやある、ということであろう。 ここまで言われれば、好古はやむを得なかった。先祖代々禄ろく
を食は んできた恩ともいうものが旧藩士にはある。 「渡仏します」 と、無造作に言った。言った瞬間、陸軍における栄達をあきらめた。
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