〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-W』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(一)
 

2014/11/04 (火) 

海 軍 兵 学 校 (二十三)

そういういきさつがあって、秋山好古は明治二十年七月二十五日、フランスへ向かうべく横浜を出帆している。
このため、真之が帰郷した二十一年の夏は好古は日本にいない。
「信から手紙が来ている」
と、八十九翁は、幾通かのそれを見せた。
その手紙によれば旧久松定謨はぶじサンシールの陸軍士官学校に入学できた。好古はその補導にあたる一方、フランス陸軍省の許可を得て同校の聴講生になっているという。
(気の毒に。──)
と、真之は思った。日本の士官学校を出て陸軍大学校にまで学んだ陸軍大尉意が、また逆もどりしてフランスの士官学校で一からものを学ばねばならない。
パリからの第一信は、
「まるで田舎の処女が、吉原にかつぎこまれたようなものです」
と、八十九翁に対して書いている。
明治二十一年のころの日本というのは、陸海軍学校こそ洋式生活をさせていたが、一般はすべての面で封建時代の生活とさほど変わりがない。好古はパリに着いた時、ヨーロッパ文明というものがあまりにも日本と異質なことに驚き、その技術能力と言い、富力と言い、日本とどこまで懸絶けんぜつ したものであるかということが見当もつかず、ただ茫然とした。そのパリの華麗さを吉原遊郭にたとえ、自分を田舎から売られて来た処女に見立てた。
「ただいまは、まだ言語も通ぜず、様子も十分にわからず、交際やなにやかやでずいべん困っています。とにかくくるわ 言葉もわからず、世事はわからず、朋輩ほうばい婢僕ひぼく に対していろいろ気兼ねもあり、いやはや面倒なもので、この向こう見ずの好古も、この様子では当分品行をつつしみ、礼節を守り、おとなしく暮すほかありませぬ」
そんな手紙である。
「どうも、パリを吉原だと思っているらしい」
と、八十九翁は大声で笑った。
「しかし淳、信は東京の頃吉原へよく行ったのか」
「さあ、存じませんな」
と言ったが、真之は知っていた。好古とおなじ下宿だった頃、ときどき 「淳、今日は帰らんぞ、吉原で寝る」 と言って出て行ったことをおぼえている。
好古のフランスにおける生活費は、久松家から年額千円の手当が出る。それに俸給の半分が陸軍省から出る。その程度なら鳴かず飛ばずの暮らしは十分できるのだが、酒好きの好古には苦しかった。わるいことに幼友達の加藤恒忠が酒の相手になったし、それにいフランス人将校とのつきあいもあり、さらに好古は馬まで買ってしまっていた。馬を飼えば馬丁をやとわねばならないし、飼料代もばかにならない。このためパンとバターだけで毎月一週間以上暮した。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ