要するに殿様の久松定謨は、去る明治十六年、フランスに留学した。この人の十七歳の時である。 留学する時、旧藩士の加藤恒忠が久松家からそう言われ、補導者としてつきそった。 加藤恒忠のことについてはすでに触れた。好古と同年で竹馬の友であり、彼らの城下では、 ──
秋山の信さんか、大原 (恒忠の実家) の次男坊か。 といわれたほどの秀才であった。恒忠は好古よりひと足早く東京へ出て当時天下の秀才を集めていた司法省法学校へ入った。ここで法律を専修し、一方、中江兆民
の塾でフランス語を学んだ。その法学校時代の友人であった陸羯南くがかつなん
と生涯友誼ゆうぎ を結んだが、羯南ほどの人物がつねに恒忠に兄事けいじ
し、生涯、敬意をうしなったことがない。 余談ながら、この加藤恒忠は外交官なって将来を嘱望されたが、三十五、六で急に役人の暮らしがいやになり、やめてしまった。 「惜しいことだ」 と、ある人が、陸羯南に言った。 「加藤恒忠という人ももう少し辛抱していれば外務大臣になるところだったのに」 と言うと、羯南は色をなし、 ──
君は加藤恒忠を知らない。 と言った。羯南に言わせると、加藤は大臣なろうというようなそういう野心のある男ではない。彼ほど淡白で俗っ気のすくない人物をおれは見たことがない、いやになれば惜しげもなくやめるというところが加藤恒忠なのだ、と言うのである。 加藤恒忠は、松山藩の藩儒大原観山の子であり、正岡子規の母とは姉弟であることはさきに触れた。子規はこの叔父を頼って東京へ出た。たまたま恒忠は既述さき
のいきさつによって旧藩主久松定謨のフランス留学について行かねばならなくなったため、子規のことを友人の陸羯南に託した。そのこともすでに触れた。 ── ところで。 と、好古の面前にいる家令の藤野漸老はいうのである。 「すでに滞仏三年、加藤からのたよりでは学業は大いにすすんでおられるらしい」 さらに、 「来年
── 明治二十年 ── はサンシールの陸軍士官学校に入学なさらねばならない」 と、藤野老は言った。 士官学校に入る以上は、補導役としての加藤恒忠はその方の門外漢だから、これ以上は付き添っていても意味がない。さらに加藤はこの滞仏中に外務省の籍に戻り、
「交際官」 という職に任ぜられたから、十分の面倒がみられない。 「そこで、足下そっか
だ」 と、藤野老が言った。補導役としてフランスへ行ってくれんか、と言うのである。 「陸軍省の方へは、足下を借りることを久松家からもお願いする。どうだ」 と、老は好古の意向をただした。 |