好古は、軍服のひざを折って座敷にすわっている。やがて、旧藩士たちのいう、 「藤野老」 が入って来た。四十四歳で老と言われるのは気の毒なようだが、人柄に長者の風があってその呼ばれ方がふさわしい。 ──
信三郎さん。 と、藤野老が、好古を通称で呼んだ。 「じつは、定謨
さまのことじゃが」 と言う。定謨は慶応三年生まれの二十歳ながら、久松家の当主になっている。 ちなみに、明治初年から二十年代にかけて、旧大名の子弟の私費留学がはやった。 理由は、いくつか考えられる。明治維新はいわゆる雄藩がそれをやったが、維新後、殿様は置いてぼりになった。賢候と言われるほどの器量を持った人でも、そこは大名育ちのために実際の政治や行政を担当するには、能力よりもまず性格や対人感覚がそれに適む
いていない。あれほどの騒ぎになった戊辰戦争でも、戦国時代の大名のように殿様みずから藩兵を率いて戦場にのぞんだということは、一例もない。 これが、維新後、旧大名が政治の表から消えざるを得なかった最大の理由であると言われている。 維新後、 ──
西洋の貴族はそうではない。 と言われはじめた。西洋の貴族たちは貴族であるがために庶民以上に体を鍛え、その階級が肉体的にも強者であるという古来の通念を維持しようとしている。教養や徳義の面でも庶民よりはるかに高い水準であらねばならず、さらに物事の処理能力
── 子規の用語でいう俗才 ── でも庶民の遠く及ばぬ能力を身につけていなければならない。英国やドイツにおける政治・軍事は貴族かそれに準ずる階級によって運営されていることがそのいい例であろう。 日本の公卿や殿様は、無能力者の代表とされてきた。 「これでは将来、華族はこのあたらしい国家から浮き上がってしまう」 というのが、殿様留学ばやりのおもな理由であった。 さらに、旧大名の経済的余裕がそれを許した。旧幕時代、大名の家というのは軒なみに財政が窮迫していたが、版籍奉還から廃藩置県にかけて、大名は家臣を養い藩財政を維持するという責任から逃れ、東京在住を命ぜられ、石高の大小によって一定の定収を得た。大名をやめて華族になる事によって、かえって家政がゆたかになった。 それが、この流行をいよいよ促進させた。 そういうことで久松家の旧臣たちも、わかい当主の定謨の教育と将来を考えるについて、この人を西洋に留学させ、西洋流の強靭きょうじん
な貴族としての属性を身につけさせようとした。 ただ風変わりなことは、この若い殿様を軍人にしようと彼らが考えた事である。維新で敗者にまわった伊予松山藩だけに、かえってこういう力りき
みがあったのであろう。 |