〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-W』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(一)
 

2014/11/02 (日) 

海 軍 兵 学 校 (十八)

兄の好古は、東京にいる。
この前後の秋山好古の官歴は、
明治十九年 (数えて二十八歳)
     四月 東京鎮台参謀ニ補ス
     六月 陸軍奇兵隊大尉ニ任ズ
明治二十年 (同二十九歳)
     七月 東京鎮台参謀ヲ免ジ、
         自費仏国留学ヲ許可
となっている。
「自負によるフランス留学」
ということが、好古をじつは憂鬱にさせていた。
事の起こりは、旧藩主久松家にある。話がはじまったのは、明治十九年の春である。
「重大な話があるから、つぎの日曜日、御屋敷まで足労ねがいたい」
という旨の使いが鎮台司令部にいる好古のもとに来た。旧藩時代でいえば上使が来たようなものである。好古は、つぎの日曜日には彼が肝煎きもいり をしている騎兵会の会合があったのだが、その予定を変更して参上することにした。
旧藩主家というのは、この当時、まだそれほどに重い。明治後、官吏や軍人は天子に直属し、 「陛下の軍人」 という建前になったのだが、しかし士族上がりの官吏、軍人の立場は微妙であった。なお礼儀上、旧藩主家に対し、家臣の礼をとりつづけている。
軍人でなくても、学生の正岡子規の場合ですら、そういう例がある。十九年の夏、
── 定靖さだやす さまのお供をせよ。
と、御屋敷から命ぜられた。定靖というのは久松家の子息のひとりで、日光方面に旅行するという。子規は命に従い、定靖の話し相手をつとめつつ中禅寺湖ちゅうぜんじこ伊香保いかほ などに遊んでいる。
つぎの日曜日、好古は御屋敷へ参上した。が、陸軍大尉といえども、旧臣であるかぎり、応接間には通されない。
「御用部屋へ」
と、案内の女中が言った。
御用部屋というのは、家令の執務室である。家令は、旧藩時代ならば家老にあたるであろう。 維新後、旧藩士が離れたあと、どの大名家もその中から人選して家令お置き、家政上の面倒を見させた。
久松家の家令は、藤野すすむ である。天保十三年の生まれというから、この明治十九年には満四十四になる。維新後も、
── 武士は藤野。
と言われたほど武士らしい人物で、文武の達人とされた。廃藩後は東京に出て会計検査院につとめたが、中途で退官し、久松家に入っている。のち松山に帰ってからは国立第五十二銀行の創設に奔走し、その二代目の頭取になったりしたが、この人の存在を後にまで郷党に印象付けてのは、その謡曲ようきょく 好きであった。旧藩と縁の深い謡曲宝生流ほうしょうりゅう の保存につとめ、洋々会を起こし、その盟主となって、
── 洋々居士こじ
と呼ばれた。
子規の親戚で、叔父にあたる。子規が常盤会の給費生になれたのはこの叔父のおかげらしい。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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