兄の好古は、東京にいる。 この前後の秋山好古の官歴は、 明治十九年
(数えて二十八歳) 四月 東京鎮台参謀ニ補ス 六月 陸軍奇兵隊大尉ニ任ズ 明治二十年 (同二十九歳) 七月 東京鎮台参謀ヲ免ジ、 自費仏国留学ヲ許可 となっている。 「自負によるフランス留学」 ということが、好古をじつは憂鬱にさせていた。 事の起こりは、旧藩主久松家にある。話がはじまったのは、明治十九年の春である。 「重大な話があるから、つぎの日曜日、御屋敷まで足労ねがいたい」 という旨の使いが鎮台司令部にいる好古のもとに来た。旧藩時代でいえば上使が来たようなものである。好古は、つぎの日曜日には彼が肝煎
をしている騎兵会の会合があったのだが、その予定を変更して参上することにした。 旧藩主家というのは、この当時、まだそれほどに重い。明治後、官吏や軍人は天子に直属し、
「陛下の軍人」 という建前になったのだが、しかし士族上がりの官吏、軍人の立場は微妙であった。なお礼儀上、旧藩主家に対し、家臣の礼をとりつづけている。 軍人でなくても、学生の正岡子規の場合ですら、そういう例がある。十九年の夏、 ──
定靖さだやす さまのお供をせよ。 と、御屋敷から命ぜられた。定靖というのは久松家の子息のひとりで、日光方面に旅行するという。子規は命に従い、定靖の話し相手をつとめつつ中禅寺湖ちゅうぜんじこ
、伊香保いかほ などに遊んでいる。 つぎの日曜日、好古は御屋敷へ参上した。が、陸軍大尉といえども、旧臣であるかぎり、応接間には通されない。 「御用部屋へ」 と、案内の女中が言った。 御用部屋というのは、家令の執務室である。家令は、旧藩時代ならば家老にあたるであろう。
維新後、旧藩士が離れたあと、どの大名家もその中から人選して家令お置き、家政上の面倒を見させた。 久松家の家令は、藤野漸すすむ
である。天保十三年の生まれというから、この明治十九年には満四十四になる。維新後も、 ── 武士は藤野。 と言われたほど武士らしい人物で、文武の達人とされた。廃藩後は東京に出て会計検査院につとめたが、中途で退官し、久松家に入っている。のち松山に帰ってからは国立第五十二銀行の創設に奔走し、その二代目の頭取になったりしたが、この人の存在を後にまで郷党に印象付けてのは、その謡曲ようきょく
好きであった。旧藩と縁の深い謡曲宝生流ほうしょうりゅう
の保存につとめ、洋々会を起こし、その盟主となって、 ── 洋々居士こじ
と呼ばれた。 子規の親戚で、叔父にあたる。子規が常盤会の給費生になれたのはこの叔父のおかげらしい。 |