この夏、高浜清
(俳号・虚子
) は、松山中学に入ってまだ数ヶ月にしかならない少年であった。 ── 秋山のヤソクさんとこ・・
の淳さんが帰っている。 といううわさは、少年の仲間にたちまちひろがった。少年たちは英雄がすきで、真之のうわさをあたかも古英雄の逸話でも聞くように聞いた。 とくに、虚子にとっては真之という存在は他人のように思われない。旧藩時代、高浜家と秋山家はおなじ徒士かち
組で、八十九翁と虚子の実父池内信夫とは同役であり、その後も家同士の交際が続いている。 が、虚子自身は真之とゆきき・・・
があったわけではない。 ちなみにこの三年後、河東かわひがし
秉五郎へいごろう (碧へき
梧桐ごとう )
が松山中学四年生の時第一高等中学 (大学予備門の後身) を受験するために上京し、常盤会の寄宿舎に入った。このとき壁梧桐の仲介によって虚子ははじめて正岡子規に手紙を出し、文学への志を述べ、教えを乞いたいという旨を申し送っている。が、この真之帰省当時の虚子は、まだそういう志向も芽生えぬ少年であったに過ぎない。 「淳さんは、泳ぎが一番じゃげな」 と、情報に明るい仲間の子供がそう語るのを、虚子は目を輝かせて聞いた。兵学校の遠泳で何里という距離を終始一番で泳ぎきったという。 「秋山の淳さんが、いつも昼ごろになるとお囲かこ
い池に泳ぎに来ている」 といううわさが伝わった時、みなで見に行こうということになった。虚子も水泳用の褌を締めてお囲い池に行った。 お囲い池というのは旧藩時代のプールで、石をもって周囲を囲み、後のいわゆるプールとさほどかわらない。旧藩の頃はここで藩士の子弟が藩の水泳師範から神伝流の水泳術を学んだが、虚子の頃でも城下の少年は夏になればここで遊び、水泳達者の者から旧藩以来の神伝流泳法を学んだ。 みな昼飯を食って出かけた。仲間の中では虚子と中学同級の碧梧桐がもっとも熱心な真之のファンであった。虚子の家は彼の幼時に郊外へ引っ越したが、碧梧桐の家はずっと秋山家の近所だったから、彼の幼時は真之が餓鬼大将であった。 「・・・・・我々の団体の隊長とも崇あが
められて隠然首領株を以って目されていたのが馬島某であった。温厚寡黙かもく
の人で、皆よく懐なつ いていた。・・・・今一人の青年は隊中の闘将とも言うべきで、どんな相手にも背うしろ
を見せない颯爽さっそう たる気魄と風采ふうさい
を持っていた。その闘将が先頭 (喧嘩の) に立つ時、天下に何の恐いものもないような勇気と安心とが、我々の胸に一杯になる程だった。名を秋山のじゅん・・・
さんと言った。馬島はやさしくて好きであり、じゅんさんは恐ろしくて好きであった」 と、後年、碧梧桐は書いている。 お囲い池に行ってみると、その秋山の淳さんが褌ひとつで歩いていた。虚子がおどろいたことに、彼らの
「英雄」 は、 ── ちんぽがかゆうてたまらん。 と、その部分を砂でもみながら歩いていた。それだけで少年たちは驚嘆した。 |