真之らの在学中、学校が移転することになった。 広島県江田島に行くという。 その理由はいくつかあるが、開花と共に次第に華美になってゆく東京下の風が海軍教育にふさわしくないということが主なものであるらしい。 「江田島」 よいっても、広島県出身の者でさえそういう島があるのを知らなかった。 広島湾の東はしに浮かび、呉
湾からいえば西側に位置している。小島とはいえ、能美のみ
島という別な島とほそい地頸ちけい
でつながっている。生徒間にうわさが広がった時は海軍ではすでにこの小島に学校施設を作りつつあった。移転は明治二十一年八月一日に行われた。 真之の入校三年目の年である。 瀬戸の輸送は、学校の練習船である東京丸がそれに当った。 秋山真之にとって多少ありがたかったのは、故郷の松山が近くになったことである。瀬戸内海を島づたいに手漕ぎの舟で行っても行けそうなほど近い。 この夏、移転早々、休暇があった。真之は島まわりの小さな蒸気船で松山の港の三津浜へ入った。 六派な桟橋さんばし
が出来ていた。 (かわれば変わるものだ) と、おどろいた。兄の好古が初めて三津浜を出て行くときは、ここはただの砂浜であった。小舟で沖まで出て、そこに錨いかり
を下ろしている船に乗った。 真之が出て行くときはすでに粗末な桟橋が出来ていたが、このように立派なものではなかった。 真之が、桟橋を歩いていると、土地の者が彼の異装に目をみはり、 ・・・・ありゃ、なんじゃろ。 と、大人も子供も振り返って声高こわだか
に言いあった。これには真之も閉口し、 (やはり夜に帰るのじゃったな) と思った。 この当時は、たれもがまだ和装であり、服装の点では江戸時代とさほど差がない。洋服を着ている人は県の高官か、儀式の日の小学校長ぐらいのものであり、そのほかに兵隊と警官が制服を着ている。町の者はそれは知っているが、海軍兵学校の制服などは見たことがない。 「ジャケット」 といわれる白の上着を着て、白のズボンに短剣を吊っている。松山に入ると、背後で笑う者がいた。なぐってやろうかと思ったが、子供だった。子供たちはどぶ川で、
「もがり」 というものを獲っていた。蚊に似た、蚊よりも四、五倍も大きい昆虫で、それを網で取る。 もがり、ちっちきち 上に鬼がいる 下の方へさがれ 真之も子供の頃に歌った唄である。この旧城下町は少しも変わっていない。
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