真之の兵学校の生活がつづいている。 入校の年いっぱいはやはり気持が落ち着かなかった。 ──
どうやら道をあやまったかもしれない。 と、しばしば思い、大学予備門のころの自由な生活がなつかしまれてならず、自習時間のときなど、書物を開いていながらそのころの生活が夢か幻覚のように去来した。 不意に子規のなまぬるい伊予弁が聞こえて来て、はっと左右をながめたこともある。 その左右にいる生徒たちにも、どうも真之はなじめなかった。大学予備門の連中からすれば子供っぽくて、土くさい。 (おれも田舎者なのだが) と、そういう自分がおかしく思うのだが、この感情はどうにもならない。 が、二年目には覚悟が出来た。その頃から首席になった。 ──
秋山はいつ勉強するのか。 と、同期の生徒に言われた。 が、真之の方が、彼らがああも勉強していることがよくわからない。 大学予備門の頃と同じように、試験ということになると、 ──
どこが出るか。 と、真之にたれもが聞きに来た。真之はいちいち予想すると、ほとんどが的中した。ふしぎな天分を持っている。 小柄だが、ひどく敏捷だった。マストへのぼるのはたれよりも早かった。 英国人教官は、あらゆる面でダートマスト海軍兵学校の教育法を持ち込んだ。この教育法に、駈け足があった。長距離を駈け足すことをもって自己と戦う精神と、艦隊勤務に堪えうる体力をつくるというところに目的があったらしい。 毎年三月三十一日には全校の生徒が分隊単位でマラソンをするという催しがあった。 築地から飛鳥
山まで走る。真之の属する分隊が毎年優勝したわけではなかったが、彼自身はものマラソンが得意であった。 明治二十一年の年度の駈け足のときは第二位であった。第一位の分隊が真之らの分隊を追い抜いたとき、 (幽霊が指揮している) おもわず思ったほど、その優勝分隊の指揮生徒の顔が蒼かった。 真之より一年上の生徒で、名前も顔も早くから知っている。広瀬武夫といった。 広瀬は左脚が骨膜炎にかかっているのも知らず、その激しい痛みに堪えつつ駈けていたのである。この我慢強い男はその夜もそのまま寝たが、激痛のため一睡も出来ず、終夜起きていた。 翌朝、
「整列」 に出たとき、はじめて教官がこの男の異常を発見し、軍尉官に診み
せた。 既に手遅れであり、切断を要する、と軍尉官は判断したが、しかし幸いにも軍尉官はそれをせず、入院させしばらく経過の観察をすることにしたが、結果はその方がよかった。 真之はのち、あの駈け足の時の感動からこの人物と親しくなり、ある時期には下宿を共にするほどになった。
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