メッケルは、背広で講壇に立った。開講早々この
「渋柿おやじ」 は、 「まず、諸君の国が用いている操典
の検討からはじめる」 と宣言し、学生を失望させた。馬鹿にしている、と立ち上がろうとする者もあった。埼玉出身の歩兵中尉榊原さかきばら
宰之助がそれであり、 「彼のわれわれに対する評価は低すぎる」 と、横の秋山好古に言った。好古も、苦笑した。操典というのは軍隊運動の基礎的動作を書いたもので、とっくにそういうものを卒業している陸軍大学校の学生に講義すべきではない。 が、メッケルが一時間ほどしゃべるうちに一同は粛然しゅくぜん
となった。榊原などは、頭をかかえた。 ── いかに実際的でないか。 ということを、メッケルは説くのである。 日本の操典は、幕府時代の初期はオランダの直訳であり、末期はフランスの直訳で、明治もその伝統をを引継ぎ、その翻訳もより精密になった。それで訓練と教育を受けた好古らは、たとえば今すぐフランス陸軍に入れられても、そのまま士官がつとまるほどであった。 メッケルがこの開講早々で検討したのは、作戦に関する操典である。 「間違ってはいないが、理論的でありすぎる」 というのが彼の結論であり、その箇所を学生にいちいち傍線をひかせて分析し始めた。 モルトケが作り上げたドイツ式の作戦運動は、すべて実戦的といっていい。 「大作戦といえども小部隊の運動から成立している以上、こういう操典を使っていてはどうにもならない」 メッケルは軍人だけに、ドイツ人のフランス人に対する伝統的な憎悪というものが露骨に出ている。しかしメッケルの立論には、その正当さについて動かせぬ証拠があった。 普仏戦争ではフランス陸軍は一戦といえどもドイツ陸軍に勝てず、ついにセダンの要塞で、ナポレオン三世みずからが十万人の将兵と共に捕虜になるほどの敗北をした。 「ドイツ陸軍は」 と、メッケルは言う。 兵器の質量においてフランスに優れていたのではない。兵の数においても決してフランスを凌駕りょうが
していなかった。ドイツがフランスよりもはるかに優れていたのは、各級指揮官の能力である。 「指揮官の能力は、固有のものではない」 おt、メッケルは言う。 「操典の良否によるものだ」 よき操典で心身ともに訓練されつくした指揮官は、悪あ
しき操典で動かざるを得ぬ軍隊に負けるはずがない、とメッケルは言う。 「だから私はこの講義を始めるに当って言った。私にプロシャ陸軍の一個連隊を指揮せしむれば全日本陸軍を破り得ると」
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