極端な言い方をすれば、メッケルが日露戦争までの日本陸軍の骨格をつくりあげたといえるかもしれない。メッケル自身、後年それをひそかに自負していたようであり、日露戦争の海戦を聞くや、ベルリンから日本の参謀総長あて、 「万歳──。日本人メッケルより」 と、打電した。ちなみに明治時代が終わり、日露戦争の担当者がつぎつぎに死んだあと、日本陸軍がそれまであれほど感謝していたメッケルの名を口にしなくなったのは戦勝の果実を継いだ
── たとえば一代成金の息子のような ── 者がたれでも持つ驕慢
と狭量きょうりょう と、身のほど知らぬ無智というものであったろう。 メッケルは、その講義で言う。 「戦いは、出鼻でばな
で勝たねばならぬ」 敵の意表に出、その機先を制さねばならぬ、という。この思想は日本人が室町時代以来数百年かかってつくりあげた日本剣術の基本思想だが、しかしそれが近代軍事学のなかでも適用しようとは、この当時の日本軍人のほとんどは考えていなかった。 これについて、メッケルはさらに言う。 「宣戦布告のあとで軍隊を動員するような愚はするな」 となれば、軍隊を動員し、準備を整えきったところで宣戦し、同時攻撃をし、敵が眠っている間に叩き、あとは先手々々をとってゆく、要するにメッケルは、 「宣戦したときにもう敵を叩いている、というふうにせよ」 と言うのである。これを聞いたとき、学生のほとんどは、 (それは卑怯ひきょう
ではないか) と思った。好古なども、 ── このドイツじじいはひどいことを言う。 おt、思った。 卑怯というよりも、そういうことが国際法上許されるかどうか、ということをみな不審に思った。 この時代の日本人ほど、国際社会というもにに対していじらしい民族は世界史上なかったであろう。十数年前に近代国家を誕生させ国際社会の仲間入りをしたが、欧米の各国がこのアジアの新国家を目もく
して野蛮国と見ることを異常におそれた。さらには幕末からつづいている不平等条約を改正してもらうにはことさらに文明国であることを誇示せねばならなかった。文明というのは国家として国際信義と国際法を守ることだと思い、その意思統一のもとに、陸海軍の士官養成学校ではいかなる国のそれよりも国際法学習に多くの時間を割さ
かせた。 が、メッケルはいいという。 いわば悪徳弁護士のような法解釈だが、違法ではないという。それが学生たちを安堵させ、これのよって 「宣戦と同時攻撃」
というのは日本人の伝統的なやり方になり、ついには世界中から、 ── 日本人のいつものあの手。 という嘲罵ちょうば
をうけるようになった。 |