「ドイツから人を招くのもいいが、いったいドイツ語の通訳などいないのではないか」 ということが、メッケル来日までの日本陸軍の悩みであった。 が、偶然にもいた。それも、陸軍のひざもとにいた。陸軍の会計ニ等軍吏
(計理部将校) で遠藤慎司という者が、ドイツ留学から帰朝したばかりでえあった。 遠藤は、旧紀州藩士である。なぜ彼がドイツに縁をもったかということについては、その出身藩である紀州藩
(和歌山県) のことから触れねばならない。 明治初年というのは、東京政府の成立後も同四年の廃藩置県までは依然として徳川時代の三百諸侯がその領分を治めていた。この時期、紀州藩は他に類のないほど思い切った藩政改革をやった。 やってのけたのは、同藩の執政
津田出いずる という人物である。政治の天才というべき人物で維新後、西郷隆盛がその名声を聞き、 「われわれ薩摩人は幕府を倒したが、新政府のつくり方については不馴れである。よろし紀州の津田先生を招いて大久保
(利通) も私も諸君もその下で働こうではないか」 と、当時東京に出て来ている津田の止宿先を訪れ出馬を懇請こんせい
したほどであった。もっともこのことは実らずに終わった。その理由にはいろいろの説があるが、西郷が他の人から、 「津田は明敏だが、公金を私する癖へき
がある」 ということを聞き、一時に津田への尊敬熱がさめたというのがほんとうらしい。 その津田がこの明治初年にやった藩政改革はあらゆる点で時代の先端を行くものであったが、紀州藩の藩軍をドイツ式にしたことがもっとも特異であった。 津田は、旧幕時代からオランダ学者でとおっていた。彼はオランダ語の軍事書物でプロシャ陸軍の優越性を知り、それを極東のこの島国の紀州藩に移植しようとした。 が、プロシャに伝手つて
がない。たまたま大阪の外国商人の中にカッピンという者がおり、それがプロシャ人であることを知った。カッピンは幸いなことに予備役少尉であった。津田はこのカッピンを紀州に招いて軍制改革の最高顧問とした。明治二年十月である。 が、軍隊には軍需品が要る。たとえば靴、服、馬具などである。津田のやり方は徹底しており、これらも藩で作ろうとし、その作り方もドイツ式にしようとし、その職人をベルリンから招いた。鍛冶屋のブーク、革職人のワルデー、築城技師のマイヨーなど五人のプロシャ人が明治三年七月に和歌山の城下にやって来た。 この兵制改革はその翌年の廃藩置県とともに解消したが、しかし紀州藩士の中にドイツ語学習の伝統が残った。 遠藤慎司が、その一人である。彼は津田が廃藩置県後、一時陸軍省の会計監督長をやった時の若い下僚であり、津田からすすめられてプロシャ式の陸軍会計を学ぶべくドイツに留学したのである。 それが、メッケルの来日で役に立った。遠藤のドイツ語はみごとであり、さらに彼がドイツの軍事用語に通暁つうぎょう
していたことがこの当時の日本に幸いした。 |