〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-W』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(一)
 

2014/10/31 (金) 

海 軍 兵 学 校 (九)

この日本陸軍の基礎をつくったというべきメッケル少佐は、住居を三宅坂みやけざか にさだめた。
陸軍省は、メッケルに気をつかい、その来日前に参謀本部構内の崖の上に赤レンガの欧州風住宅を建てた。
メッケルは、講壇に立った。彼は秋山好古を見たとき、ちょっと驚いた様子を見せ、
「君は、ヨーロッパ人か」
と、ドイツ語で聞いた。好古はドイツ語が分からず、メッケルを見つめたまま黙っていた。通訳が、あわてて言った。
「この学生も他の学生と同様、生粋きっすい の日本人です」
あとでその内容を通訳から聞き、好古は苦笑した。好古だけでなくどの学生も、メッケルの言葉が分からない。士官学校で習得したことは、みなフランス語であった。
日本陸軍は、旧幕府がフランス式であったことを引き継いだ。明治三年十月、政府は、
「海軍は英式、陸軍は仏式による」
と、正式に布告した。
自然、好古らの学んだ頃の士官学校の教官もフランス人が多かった。
ドイツ人ということになると、日本そのものが縁がうすい。幕末、ドイツ語を学んだ者は加藤弘之ひとりとされており、明治後の日本人もドイツについての知識が乏しく、プロシャなどはヨーロッパの二流国にすぎないと思っていた。ところが、医学者と哲学者とが、まずドイツを認識した。ついで陸軍がそれを知った。
知るのも、当然であった。わが国の明治三 (1870) 年七月、フランスはプロシャに宣戦し、いわゆる普仏ふふつ 戦争がおこった。九月、プロシャ軍はセダンの要塞を包囲して陥落させ、十万人の捕虜を得、ナポレオン三世を降伏させ、この戦勝によって大陸における最大の強国とされたフランスの栄光を消滅させた。翌年一月二十八日、プロシャ軍はパリに入城した。
このプロシャの勝利は、戦略からいえば宰相ビスマルクの勝利であろう。
「わが国の国運は鉄と血によって回転す」
といったこの十九世紀末の政治家は、軍事力的威力の徹底した信者であり、これを外交の最大の武器に使った。
さらにこの普仏戦争の勝利は、参謀総長モルトケが独創して体系化したその戦略戦術の勝利であるといっていい。
モルトケ戦術の新しさは、主力殲滅せんめつ 主義にあるであろう。戦場における枝葉の現象に目もくれず、敵の主力がどこにいるかを素早く知り、味方の最大の力をそこに集結させて一挙に攻撃し殲滅するというものであった。日露戦争における奉天大ほうてん 会戦で日本陸軍がとった方法はこのモルトケの思想であるといっていい。
そのモルトケは、わが国の安政四 (1857) 年以来、プロシャ陸軍の参謀総長でありつづけておりその戦術の母体になる軍制、装備などもこのモルトケの創案によるところが多い。
それらいわばモルトケの陸軍学のすべてをメッケルは日本に伝えるべくしてやって来ている。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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